閏四月五日、山中兵部は、副使山野主馬・佐藤英馬を同道して仙台へと向かった。その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。
山中兵部は、今後の方向性を協議すべく、同道の佐藤英馬を先行させて秋田藩重役との会見を申し込み、閏四月八日に、同藩家老岡本又太郎、用人金大之進、根岸靱負と会談した(『弘前藩記事』一)。
それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣するに至った弘前藩の意向についてが議題となっていた。つまり、庄内藩出兵もやむをえないという向きと、山中の理解した仙台方面の和平工作がまったく相反するものであったため、秋田藩との協議が必要とされたのである。
この山中がもたらした②の情報は、秋田藩にとっては初めて触れる情報であり、同日中に白石会議出席要請の廻状が秋田藩へも到着したため、九日に秋田藩使者も仙台へ向けて出立した。ただし、秋田藩でも諸藩の事情を探りながらのことでもあって、弘前藩同様、会議への出席は実現していない。
秋田藩は翌日、家老戸村十太夫と用人金大之進を使者として仙台へ派遣した。閏四月十一日付の岡本又太郎ら家老四人が沢副総督との会見した後に戸村十太夫に出した書簡によれば、この使者派遣目的は和平策の模索であったことがわかる。つまり、秋田藩もまた、弘前藩の山中兵部等と同様に、白石会議開催は戦争回避の有効な解決策となりうる可能性を見いだしていたのであった。しかし、一方でこの書簡は、沢副総督から出兵の催促があった事を告げたうえで、早速庄内征討を進めようとする総督府側との折衝がどれだけ困難であるかという苦悩を切々と訴え、秋田藩がいかに厳しい状況に置かれているかということを示すものであった(『秋田県史』資料 明治編上)。
さて、山中兵部は、閏四月十三日に新庄在陣中の沢副総督、十七日には岩沼在陣の九条総督を見舞っており、翌十八日には白石(しろいし)で仙台藩主伊達慶邦への使者を勤めている。そして、白石入りを果たした山中兵部は「奥羽諸藩家老連署嘆願書」(『仙台市史』近世1)に加判し、同二十日、白石城中での列藩会議に参加した。この会議では、九条総督の仙台帰陣問題や庄内征討問題について衆議がなされた。二十二日には、再び会議が開かれ、奥羽諸藩の間に「白石同盟」が結成されたのである(「大日本維新史料稿本」十一)。