盛岡藩の征討命令を受けた弘前藩から、九月四日、二通の書翰が発信された。一つが近衛忠熈・忠房宛て(同前No.五四五)であり、もう一つが、熊本藩主細川韶邦(よしくに)へ宛てたもの(同前No.五四六)であった。九月三日付けの前者は、藩論決定への助言に対して礼を述べたうえで、「勤王之素志」を貫くことを強く宣言するものであり、弘前藩の覚悟を表明するものであった。そして後者は、藩主承昭の出身である熊本藩へ援軍を要請するものであった。戦争勃発後からこれまでの経緯を説明したうえで、盛岡藩征討命令が出されたこと、覚悟はあるが勝率が高くはないこと、戦争が長引くと、まもなく積雪期に入って戦争が難しくなること、総督府一行が帰還した場合、弘前藩は後ろ盾を失い、存続の危機にさらされること等を挙げて応援を要請したのであった。具体的には、兵隊二小隊と蒸気船一艘の援軍を求めた。秋田口の攻防に兵力を投入していた弘前藩にとって、これ以上の征討命令は、自力を超えるものであったのである。
そして、いよいよ九月二十二日から二十三日にかけて、弘前藩と盛岡藩は藩境に位置する馬門口で衝突する。これが野辺地戦争である。弘前藩からの砲撃で、戦闘は始まった。
図62.藩境塚
この時、米沢藩と仙台藩はそれぞれ降伏しており、さらに、まさにこの日は会津藩鶴ヶ城が落城した日でもあった。大勢が決していた時になぜ弘前藩はこのような行動を押し進めたのであろうか。では、両藩の本格的な衝突が起こる前夜を中心として、野辺地戦争の動機を探ってみたい。