十月十三日、薪水補給のため、盛岡藩領宮古に寄港し、開陽・回天・蟠龍・神速・長鯨と、仙台から加わった大江・鳳凰・回春の八隻で蝦夷地へ向けて出帆した。このとき、千代田形一隻は庄内応援へ差し向けられていた。旧幕府軍勢はおよそ三〇〇〇人に膨らんでいた。
図66.復元された開陽丸
旧幕府軍の目指すところは、旧幕臣の蝦夷地開拓、つまり、蝦夷地の徳川家への帰属にあった。品川沖を出帆したのは、徳川宗家の存続が明らかになったことをうけた行動だった。このとき榎本武揚らは、蝦夷地開拓と奥羽列藩同盟への援助、この二つを目的として脱走したことが、勝海舟を通じて政府に提出した「徳川家臣大挙告文(とくがわかしんたいきょつげぶみ)」によってわかる。そして目的の一つであった奥羽列藩同盟への援助はほとんど実行できなかったため、彼らの焦点は蝦夷地開拓に絞られた。
こうして十月二十日、榎本武揚らは開港場であった箱館を避けて、鷲ノ木(わしのき)(現北海道茅部郡森町)へ着岸した。そして、直ちに箱館府知事清水谷公考へ上陸の趣意と蝦夷地下付嘆願を伝える使者とそれに付属する一小隊が出発した。次いで二十一日、全軍の上陸を開始し、大鳥圭介隊が使者の後を追って、峠下(とうげした)(現北海道亀田郡七飯(ななえ)町)へと向い、土方歳三率いる軍勢が、川汲峠(かっくみとうげ)(現北海道茅部郡南茅部町と函館市の境)から間道を進発していったのである。