旧幕府軍の勢いは強く、一方の政府軍に兵力の限界を感じた清水谷公考は、十月二十四日、青森への撤退を決し、五稜郭を出て箱館へ向かった。そして、二十五日から二十六日にかけて、清水谷公考とともに箱館府兵五二人・松前藩兵一一五人・雇兵隊四〇人・大野藩兵八〇人・福山藩兵四〇〇人の計六八七人と、さらに弘前藩兵や残余兵が蒸気船で青森に退避した(同前No.五五五)。
清水谷ら一行は青森の蓮心寺(れんしんじ)に宿陣したが、箱館府員・兵士ら一一五人を率いて、十一月一日、浪岡(なみおか)にある玄徳寺(げんとくじ)に転陣した。さらに浪岡には政府軍の病院が設立される(『青森縣史』第三巻)。青森から浪岡への転陣には、旧幕府軍の蝦夷地侵攻を許した責任をとっての謹慎の意味があった(『弘前藩記事』一)。
さて、このころには政府援軍が到着しはじめるようになっており、十一月四日、まず秋田藩領船越村から長州藩兵四六〇人の応援兵が青森に着港する(同前)。また、陸路からは、同日に品川弥次郎(しながわやじろう)以下四五〇人が、六日には太政官参謀山田市之允(やまだいちのじょう)をはじめ、総督府人数等合わせて四二三人の応援軍が弘前に止宿し、それぞれ翌日には青森へ到着していた(資料近世2No.五五七)。