藩士は身分に応じていずれかの役職につき勤務したが、正月を除き毎月一日が月次(つきなみ)(並)の御礼日であった。
「国日記」宝暦六年(一七五六)十一月十七日条に、御目付(おめつけ)(大目付の指揮を受ける監察の官)以上は麻裃(半袴と同じと思われる)を、それ以下は裏付裃を着用すべきことを申し付けられているのがみえる。
「国日記」明和五年(一七六八)十一月二十九日条によれば、月次(つきなみ)(藩主に月礼拝謁ができる御中小姓以上の藩士)以上は麻裃を、それ以下は継肩衣(継裃と同じと思われる)と麻裃のどちらを着用してもよいことが知られる。
さらに「国日記」文政八年(一八二五)三月四日条には、御目見(おめみえ)以上は麻裃で登城すべきことが記されている。二、三の例を挙げたにすぎないが、「国日記」によれば文政八年までは登城に際して麻裃の着用例が圧倒的に多い。
文政八年以降幕末までの傾向を指摘すると次のようになる。
これまでの日常勤務では、長袴以上(長柄奉行以上の役職。長柄奉行とは番方の役職の一つ)が肩衣(継肩衣と思われる)を着用していたが、今後は大寄合格(おおよりあいかく)(番方の役職の一つ)以上の者が肩衣を着用し、それ以下の者は肩衣着用を強制せず自由となった(「国日記」文政十年十二月二十八日条)。
天保六年(一八三五)には目付以上の者が継肩衣の着用を命じられ(同前天保六年三月十六日条)、さらに幕末の安政六年(一八五九)になると、大寄合格以上は肩衣(継肩衣=継裃)の着用であったが、今後は御家門(ごかもん)(藩主の一族)および役高八〇〇石以上の者、すなわち家老クラスも肩衣着用となった。したがって、日常の勤務においては文政八年以降は、継肩衣(継裃)着用の傾向がみられるということである。