本町の繁栄

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享保四年(一七一九)ころの「町屋数圓」(弘図八)によれば、本町一~四丁目までは大坂屋(おおさかや)・大黒屋(だいこくや)・練屋(ねりや)・吉野屋(よしのや)・藪屋(やぶや)・若狭屋(わかさや)などの屋号のある商家が多く、五丁目は小規模な町家が並んでいた(資料近世1No.一一五七)。宝暦六年(一七五六)の「本町支配屋鋪改大帳」によると家数は一〇〇数えられ(長谷川成一編『弘前城下史料』下 一九八六年 北方新社刊)、明治初年の『新撰陸奥国誌』第二巻には「家数合て百七十二軒。この町呉服店多し、酒肆(しゅし)(酒を売る店)・茶店・洋貨舗等あり」と記されており、本町は城下の代表的商家街であったことが知られる。
 延享元年(一七四四)五月の大火によって、本町一丁目~五丁目のほかに覚勝院町(かくしょういんちょう)(後に覚仙(かくせん)町)・大工町(だいくまち)・親方町(おやかたまち)・本(元)寺町(もとてらまち)・土手町(どてまち)などへ延焼し、二〇〇軒余が焼失した(『津軽史事典』一九七七年 名著出版刊)。このため本町は衰微したと思われる。藩では宝暦四年に本町以外で木綿絹布の販売を禁止したので、本町内に出店する商人が多く集まり、再び町内が活況を呈するに至った(『平山日記』)。
 「国日記」宝暦十三年二月八日条(資料近世2No.二五九)の中に、次のようなことがみえる。
 ○本町以外の町へ出かけて行って商売する者は、販売する商品を本町から買うこと。
 ○旅人が本町以外で旅人の見世店(みせだな)を飾って卸・小売などをしてはならない。
 右の二点から、城下第一の商家街である本町が、衰微の状態から活気をとり戻すための藩の対策が知られる。このほかに「国日記」によれば、宝暦以後幕末まで、藩では再三にわたり他地域での木綿などの販売を規制して本町の繁栄を図っている。

図130.本町1丁目から5丁目までの図