延享元年(一七四四)五月の大火によって、本町一丁目~五丁目のほかに覚勝院町(かくしょういんちょう)(後に覚仙(かくせん)町)・大工町(だいくまち)・親方町(おやかたまち)・本(元)寺町(もとてらまち)・土手町(どてまち)などへ延焼し、二〇〇軒余が焼失した(『津軽史事典』一九七七年 名著出版刊)。このため本町は衰微したと思われる。藩では宝暦四年に本町以外で木綿と絹布の販売を禁止したので、本町内に出店する商人が多く集まり、再び町内が活況を呈するに至った(『平山日記』)。
「国日記」宝暦十三年二月八日条(資料近世2No.二五九)の中に、次のようなことがみえる。
○本町以外の町へ出かけて行って商売する者は、販売する商品を本町から買うこと。
○旅人が本町以外で旅人の見世店(みせだな)を飾って卸・小売などをしてはならない。
右の二点から、城下第一の商家街である本町が、衰微の状態から活気をとり戻すための藩の対策が知られる。このほかに「国日記」によれば、宝暦以後幕末まで、藩では再三にわたり他地域での絹・木綿などの販売を規制して本町の繁栄を図っている。
図130.本町1丁目から5丁目までの図