(四)瓦

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 「国日記」によると、弘前城内並びに一部城外建造物に使された屋根は、国元で焼成された国と、大坂(大阪)から海路移入された上方(下りとも表記されている。以下、本項では移入と表記する)とがあった。
 慶長十六年(一六一一)、築城(高岡城)に際して使されたとされるの製造場所は現時点では明らかでない。
 現存するに関する史料としては、まず慶安二年(一六四九)の「弘前古御絵図」(弘図津)が挙げられる。絵図には、隣接して〝かわらや〟と〝かわら屋〟の二ヵ所が記されているがともに瓦細工所である。
 また「国日記」には、年代によって件数に差異はあるが、に関する多くの記録が延宝二年(一六七四)から慶応元年(一八六五)にわたって認められる。
 なお、昭和五十四年(一九七九)度から同五十八年度にかけて弘前城三の丸庭園の発掘調査が行われたが、同報告書(『三の丸庭園発掘調査報告書Ⅲ― 弘前市教育委員会』以下、『庭園発掘報告書―』と略記する)によると、三の丸庭園跡の庭前および築山裏から完形品および大量の片の出土をみた。これら遺物の中には〝大坂細工人〟や〝大塚理右衛門(おおつかりえもん)〟大坂瓦師)の印銘のある片もみられ、大坂からの移入を推測させる。

図151.印銘(大坂細工人・大塚理右衛門)