英学寮

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慶応三年(一八六七)十月十五日、徳川慶喜は大政を奉還し、十二月九日に王政復古が宣言され、新政府が成立した。世界情勢に応じて蘭学を英学に切りかえる必要に迫られていた当局は、明治二年(一八六九)七月二十八日、津軽廷尉(ていい)宅を改造して「英学寮」を設け、藩士の子弟の優秀な者を入学させ、蘭学堂で学んでいた者もここに収容した。藩知事津軽承昭は進取の知識を洋学に求め、稽古館の教育を刷新し、最勝院敬応書院を設けて皇・漢・英の三教科を教授しようとした。しかし、皇漢学者と洋学者とは肌合いが合わず、学舎を同じくすることを好まず、結局のところ明治四年正月に英学寮青森蓮心寺に開設することとなった。教師は慶応義塾から永島貞次郎吉川泰次郎が招聘された。しかし同年七月十四日に廃藩置県が断行されるに及んで、同月二十七日に英学寮は閉鎖され、その学生は旧家老大道寺繁禎(しげよし)の邸宅(現弘前中央高校テニスコート付近)と、同じく旧家老津軽廷尉の邸宅とで修学することとなり、また敬応書院も同九月に廃されて、城内二の丸の旧藩知事承昭の私邸で漢学の教授が細々と続行されることとなった。