白狐寺

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白狐寺(びゃっこじ)は、稲荷宮(現新寺町稲荷宮)の別当であった。熊谷(くまがい)安左衛門が寛文五年(一六六五)、江戸浅草の本法寺・浅草寺に熊谷稲荷を祀った。弟子の貞昌寺隠居入誉が貞昌寺内に勧請したが、信政が宝永五年(一七〇八)新寺町に稲荷宮を創建し、別当白狐寺としたが、神職は置かなかった。同寺の鳥居に架けられた額には「稲荷大明神武州熊谷安左衛門武頼勧請」とあるが、弘前では熊谷の名前を付けず、単に稲荷と呼んだ。幕府・藩から新寺建立は禁止となっていたので、白狐寺は領内浄土宗が山崎専称寺を本寺としているのに属することができず、金戒光明寺(現京都市)へ古跡の復興を届け出て認められている。神仏分離の時、白狐寺は廃寺となり、胸肩宮(むなかたぐう)(現市内品川町)の神職山辺稲尾が祠掌となった(篠村正雄「津軽信政の稲荷信仰について」『市史ひろさき』八)。