真教寺

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真教寺(しんきょうじ)は、天文十九年(一五五〇)に加賀国(現石川県)出身の浄理が坪貝(つぼかい)村(現中津軽郡岩木町)に創建し、大浦城(同町)が弘前へ移る時に元寺町に移転した(資料近世2No.四〇九)。慶安二年(一六四九)に類焼し、同四年に新寺町へ移った。
 為信の時に浄土真宗僧録所を命じられ、一町田村(同町)のうちの高屋(たかや)村に寺領を与えられた。正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)によると、慶長十四年(一六〇九)に信枚より四石余、寛永十一年(一六三四)に信義より二〇石余の寄進があった。
 寛永九年、専徳寺(せんとくじ)と本末関係を争い、六世乗玄(じょうげん)は東本願寺宣如(せんにょ)に訴え、専徳寺が末寺であることが決まった。
 信義は乗玄のもとを数回にわたって訪れ、鐘のないのを知って、大光寺の為信の娘の供養塔にあった釣鐘を寄附した。この釣鐘は大光寺供養塔が焼失したときに傷を受けていたので、寛永十三年に鋳直して新たに銘を入れ、鐘楼堂に架けた。『新撰陸奥国誌』は新旧の鐘銘を載せている。森町(もりちょう)の時鐘堂ができるまでは、この寺の鐘が時を知らせた。俗謡に、「新寺町の真教寺の杉のしんこさ、雀四十四羽巣くてら」とうたわれるほど城下民に親しまれてきた。菅江真澄は寛政七年(一七九五)、真教寺で雪に埋もれる長柄奉行格諏訪門兵衛(行宅)の墓を捜し出している。

図213.真教寺