慈雲院

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慈雲院(じうんいん)は、享保十年(一七二五)に藩から報恩寺東隣に二七六〇坪の寄進を受けて創建された。五代藩主信寿は前年の九年、温湯(ぬるゆ)(現黒石市)へ湯治に出かけ、薬師堂(現薬師寺、黒石市)に参詣して監守秀国に会って漢詩をつくり、大道寺繁糺は秀国の出生と弘前城下に寺領を望むかを尋ねた(小野知行『津軽黄檗禅刹記』一九八五年 薬師禅寺刊)。このような経緯から、慈雲院は大道寺を開基としている。すでに、幕府・藩は新寺建立を禁止していたので、長勝寺構の中にあって廃寺となっていた慈雲院の名跡を復興することにして新寺町へ建立した。
 享保十三年(一七二八)には諸堂建立のため領内托鉢修行の願いが出され、同十七年に藩から蔵米渡しで俵子五〇俵の寄進があった。寛保三年(一七四三)には、油川村(現青森市)に布教の拠点として大円寺から満海を譲り受けた。文化九年(一八一二)からは富籤(とみくじ)の発行が藩から認められ、諸堂の再建、弟子の修学の費に充てたという(山上笙介『津軽の富籤』一九七八年 津軽書房刊)。
 大正四年(一九一五)から旧制弘前中学校校地の拡張が、慈雲院の境内全部と報恩寺の一部に及んだため、慈雲院は薬師寺(現黒石市)と合併することになり、本尊の釈迦三尊等を移した。

図220.絵図に描かれた慈雲院