深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町)は深沙大将を祀る。「天台宗縁起」(弘前市立図書館蔵)によれば、仁徳天皇の五十五年(三六七)、上毛野君田道命(かみつけぬのきみたみちのみこと)は、蝦夷によって倒され、死容は憤怒の相であったという。土地の人々が南部鹿角郡猿賀野に産土神として祀った。大同二年(八〇七)、坂上田村麻呂が蝦夷征圧の途中、田道の霊に導かれたところから、社殿を建立し深沙宮とした。これが本地垂迹説により、玄奘(げんじょう)(三蔵法師)がインドを往復した時の守護神で憤怒の相・全身赤色・左手に青蛇の深沙大将と結びつけられ、深沙大権現となった。
永禄八年(一五六五)とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、別当を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井神社)の福王寺玄蕃は、大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた。天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年別当延命院を追放し、最勝院に兼帯させたという。元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を別当とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。神仏分離によって猿賀神社と改称、郷社となり、明治十三年(一八八〇)に県社となった。