地方関連法制の施行は、村の開化をもたらすとともに経済的負担となった。中津軽郡宮地村戸長山崎彦市が、明治十三年十二月十日に村会に提案した民費減少のための建議は村の実情をよく示している。彼は言う。「人民の無事安穏を保障するために政府、県庁、海・陸軍、裁判所、警察署、病院、師範学校等があって、その費用として地租、地課、国税、地方税、協議費の負担をわれわれがしなければならない理屈は分かる。しかし、ここ宮地村は戸数僅に五十余戸-「新撰陸奥国誌」によれば田畑を専(もっぱら)の産とすれども土地下の下にして、人又少く、柴薪を市に売て口を糊するもの多しとある寒村でも、学務委員一名・総代人二名・衛生委員一名・用使一名・除虫世話掛一〇名・消防頭取一名・村会議員一〇名・書記一名・使番一名・合計二八名が役目持ちとなる。これに年給与が必要であるがとても負担に耐えきれない。それでこの役職や員数を減らし、一人何役か兼ねることのできるベテランを採用したいので賛同を願いたい」と提案している。
しかも、翌明治十四年十月から十八年末まで大蔵卿の座にあった松方正義は財政改革に取り組み、松方デフレを引き起こした。民生無視の財政政策で、増税は十三年に比べて十六年には二五%増という過酷さで、逆に米価は半値になった。十三年十二月の教育令改正で義務教育年限が一年四ヵ月から三ヵ年に延長され、町村の小学校設置義務が強まり、維持費が急激に膨張して村税増徴となった。さらに、地租の納期が三回から二回となって販売米価を下落させ、明治十五年から十八年にかけて滞納者が激増、強制処分によって土地を失う農民が続出した。選挙権や被選挙権を持つ有力者層の数も、明治十四年を一〇〇とすれば明治二十年は七四(二四万五〇〇〇人減)に減じた。