陸羯南の手紙

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すでに陸羯南は、明治十五年四月十四日、帝政党結成に積極的な内務省の品川弥二郎に弘前における陸奥帝政党結党の不調を手紙で伝えている。羯南は明治十三年秋から翌十四年五月まで北海道の官営紋別製糖所に勤務していた。そのとき、農商務大輔だった品川弥二郎と知り合った。品川は笹森儀助らが農牧社を始めるとき、時勢に遅れがちな弘前の士族授産事業を親身に物心両面にわたって世話した。
 羯南は笹森の在府町の後輩だった。羯南が司法省法学校を退学して志を得ず、『青森新聞』の記者として不遇をかこっていたときに紋別行きを勧めたのは笹森や長尾介一郎と思われる。笹森は明治十二年十月、中津軽郡長だったが、菊池九郎長尾介一郎らと函館の物産会社や七重の試験場を見学して農牧社の構想を練り、その後、単身紋別の伊達藩入植地へ赴いて田村顕と会い、感奮して帰県した。そのとき、建設中の製糖所も見てきたことであろう。笹森は、十二年から十四年にかけて、農牧社創立のため県の勧業課と密に連絡をとって往来し、また、十三年六月のころは長尾介一郎が勧業課長だったので、官営紋別製糖所の情報が早く入り、推薦などの便宜があったと思う。農牧社はこの後品川農商務大輔と深くかかわり、政府の助成を受けて事業を発展させる。
 明治十五年(一八八二)四月十四日の羯南の品川宛書翰は弘前情勢を次のように伝える。
 最近笹森儀助が上京して来て県下の情況をいろいろ伺った。弘前に紛紜が起きている。しかし、笹森自身の気持ちでは「なるべく、かれこれの小児輩と争いたくなし」、今は農牧社の事に専念したいと言っている。羯南は、その気持ちも分かるが、今この争いから抜け出ると農牧社の事業にも障害が出るから、やはり共同会派を押さえなければと説得した。笹森は、それでは誰を首領に仰ぎ、指導を受けたらよいかと聞くので、品川少輔は如何と言ったら大賛成と言った。さらなる笹森の帝政党結成上の活動依頼については品川から説得してほしい。原田敢の手紙では大分同志を得たが、田舎だけに学力・才識のある指導者がいなく、政党組織は困難とある。本多らの目的は郷田県令を追い、赤川戇助(こうすけ)書記官を県令にしたいようだが、もしそうなると弘前人は反発する。それは、中津軽郡長に共同会館山漸之進が任命されたときの混乱で証明されていたということを笹森は羯南に話した。