郷田県令と保守派

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弘前の東奥義塾グループによる自由民権運動参加への呼びかけは、彼らに悲憤慷慨の士が多く、言論、挙動に少しく穏当を欠くとして賛同しない地域指導者、知識人、資産家も多かった。八戸士族団も時期尚早として参加を断ってきた。郷田県令はその職に就くや帝政党結成に多くの便宜を与えた。郷田はしばしば腹心の鎌田政通、猪俣俊策を通じて帝政党の結成を誘った。しかし、阿部政太郎ら青年層の反対に遭って失敗した。阿部らの反対理由は、帝政党とは多少、主義や思想の合致するところがあるが、自由党改進党に伍して全国的に活躍するには非力で将来性が見えないからとした。

写真11 郷田兼徳県令

 阿部は、明治十一年四月青森県師範学校予科を卒業し、短期間教師をし、まもなく青森県医学校監事、そして青森県御用掛を勤めた。彼は述懐する、「自分はほとんど先天的に忠君愛国の主義思想に養われ来り、頭脳は保守的に堅まりおったから、イギリスを模範とした立憲制をそのまま用いるということは日本の国体にかなわぬという思想を保持していた」と。
 また、「立憲制度は善良の政体に相違なかろう。しかしながら日本には日本の国情あり、その制度を改むるとしてもいわゆる欽定憲法たるべく、人民より当然の権利として要求すべきものでない。況んや聖上陛下は明治八年において将来参政権を人民に御与えになるという御予言をなされているから、その詔勅を待つべきである。しかるに今日喧喧囂囂(けんけんごうごう)として参政権の賦与を迫るのは過激なる思想である」と反対した。
 後年政友会代議士や青森市長として活躍した阿部政太郎は、浪岡八幡宮の神主阿部文助の長男である。明治十三年十一月十四日一心社を結成した。一心社の主義綱領を平易に書き連ねたものだという数え歌では「浮華や虚名は我取らず 実を勉(つとめ)る一心社」、「大和心に漸進の針をば枉(ま)げぬ一心社」、「心誠に天皇を 戴き奉る一心社」とあり、帝政党の主義と変わらない。結局、中央において立憲帝政党は明治十五年七月福地桜痴らを中心に創立されたが、翌十六年九月に解散した。