貨幣制度の改革

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明治政府は成立以来、急速に貨幣制度の改革を進めていった。明治元年には太政官札(金札)を発行して全国的に流通させようとした。しかし、その意図に反し、当初は流通が進まなかったため、プレミアム(打歩)つきの流通を禁じたり、諸藩や府県に金札を渡し、同額の正金を上納させるなどの施策を行い、明治二年(一八六九)には全国的な流通に成功した。
 明治政府は、次に贋金対策と藩札の処理に取り組んだ。一方で、明治政府は明治四年に新貨条例を発布し、一両を一円とする新たな通貨制度を作り上げた。
 明治初年には贋金の流通も多かった。特に二分金に贋金が多く、太政官札が全国的に流通するようになった理由の一つでもあったほどである。明治政府は贋悪二分金の排除に努めたが、贋金は容易にはなくならなかった。明治五年に青森県贋金の流通を厳禁する布令を出している(資料近・現代1No.一六九)。これによれば、それまでにも禁令が出され、贋金は地金としての売買が認められたが、実際には相場が立ち、流通していたことがわかる
 弘前藩が発行した藩札の処分も進められた。明治四年十一月に旧弘前県青森県に届け出た願により、藩札発行とその後の対応の様子がわかる。これにより、一連の経過を振り返っておきたい(『青森県歴史』第三巻、国立公文書館所蔵)。

写真12 藩札

 旧弘前藩は、戊辰戦争による明治元年(一八六八)の出費や、同二年の天候不順による不作もあり、藩も人民も蓄えが尽きてしまった。このため大参事以下が決議し、紙幣を製造し、これを融通させて北越地方から米を入手した。当初、明治政府の調査に対しては藩札発行高を一〇万両として届け出たものの、実際の発行高は三〇万五五〇〇両余であった。これらを順次消却するつもりであったが、出費が多いために多くは進まず、消却高は四万四七〇〇両余にとどまったというものである。
 同年十二月には、旧知藩事津軽承昭が自らの家禄により藩札を消却することを申し出た。この願は認められたが、秩禄処分の影響もあり、最終的には藩札消却金の返納は免除された。
 こうして藩札の処理は次第に進んだが、現存する藩札をどう取り扱うのかも重要な問題であった。明治四年十二月時点では、新しい通貨単位である円、銭と、藩札の両、分、朱との交換比率が示された。それによれば藩札の一両は五三銭三厘であった(資料近・現代1No.一六八)。
 明治六年一月には二朱以上の旧弘前藩札が引き換えとなり、青森寺町蓮心寺で実施された。また、同年三月に一朱以下の藩札は押印の上、当面使用できることとされた(同前No.一七〇・一七一)。この一朱以下の藩札は七年十月に引き換えの布令が出され、新貨との交換が十一月五日から六日間実施された。これ以後一朱以下の藩札の流通が禁止された(同前No.一七二)。
 新しい通貨制度の浸透は緩慢に進んだ。このため、明治六年八月には、物価を官札の価位で定めるよう布令が出された。また、同時に商人に対して、公平な価格で売買し、相互に繁盛するように取引きするよう布令が出された(同前No.一六四)。