青森県令(知事)の山田秀典は、明治十年(一八七七)に「農工業振起促進の布令」、同十二年に「農事改良の論達」を出すなど、在来の慣行農法からの脱却を目指した各種の農産物の栽培技術の革新を図った。
明治十年代初頭の産出高(『青森県統計書』)を見ると、各津軽郡では、米の生産量が最も高く、続いて糯米(もちごめ)、大豆、蕎麦(そば)と続いており、米作が最も奨励された。
この時期、耕作の適期を広く普及するために、「津軽郡耕作考」なる普及紙が販売されている(資料近・現代1No.一九九)。これは、明治十四年(一八八一)二月、七十七歳になる斉藤佐佐衛門の手によるもので、祖先の佐馬介が天正年間(一五七三~九一)に岩館(現平賀町)に居を構えて農業に精を出す中で、「耕作考」を著し、藩に献上したことに発している。この中で、斉藤は「農ニアラサレハ士民生活ヲ保カタシ、農ノ時ヲ不失ハ国家豊饒也」と、農業振興の重要性を説き、特に農作業の適期について、作業ごとに記し、広く普及を図ろうとしたものである。
明治初期、米作技術の改良の課題は、①螟虫(めいちゅう)の駆除、②馬耕法の採用、③種籾の塩水選法であった。明治七(一八七四)、八年ごろから稲の螟虫が大量に発生し、津軽平野の水田はほとんど天災に等しく、壊滅的打撃を受けた。県は、明治十年、螟虫駆除の通達を出し、螟虫の駆除と病害虫に冒された稲藁(いなわら)の処分の徹底を行い、同十二年には「稲虫予防新藁撲潰規則」を制定し、稲藁の利用と販売を禁止した。また、山田県令は郷里の熊本から技術者を招き、馬耕法の教授を行い、その方法を普及させた。さらに、県は同二十年に苦塩水選法による種籾の選択を記した文書を篤農家に配布した(『稲作八十年のあゆみ』青森県農事懇談会)。このような行政指導もあって米の生産力と総収量は向上したが、明治十年代の平均反当収量は、平年作で約一石(二・五俵、一五〇キログラム)であった(『青森県総覧』東奥日報社、一九二八年、一九九八年復刻)。
写真17 三上仙年「四季農耕図襖絵」