写真18 初成りを記した山野茂樹の日記
なお、明治政府が明治七年(一八七四)に各府県に配布した前記「目録」の中に「苹果オホリンゴ 原名アップル」とある。つまり、日本の在来種である「林檎」と区別するために、欧米から輸入したりんごを「苹果」と表記し、「おおりんご」と読ませようとしたのである。しかし、行政文書を除けば、実際には「林檎」も「苹果」もともに「西洋りんご」を指す言葉として使われた。また、「おおりんご」という読み方はあまり定着せず、「西洋りんご」とか「りんご」というのが一般的だったようである。現在のように「りんご」という表記が一般的に使用されるようになったのは戦後のことである。
明治八年(一八七五)以降の苗木配布は無償で行われ、明治九年秋の三回目で打ち切られたが、特に明治十年の初成り以降、りんご苗木への需要は急速に高まった。この需要にこたえるべく大きな役割を果たしたのが、菊池楯衛(弘化三-大正七 一八四六-一九一八)と佐野楽翁(さのらくおう)(天保九-昭和四 一八三八-一九二三)である。菊池は、明治十年北海道へ渡り、七重村開拓使育種場で接木(つぎき)法を伝習し、また、明治十二年には東京で「数百の種子と数十種の苗木」を購入して帰弘、無償でそれらを配布したが、相当の謝礼を得たため、それを原資に住宅の一部を改造して店舗とし、苗木仕立てと同時に果実と蔬菜も販売した。一方、佐野は明治十四年、東京の植木師を弘前に呼び寄せて接木法を伝習し、苗木を繁殖、無償で配布した。菊池は、台木(だいぎ)の不足に際し、津軽一帯で容易に手に入る天然性の灌木(かんぼく)のサナシが台木に適していることを見出し推奨したことから、苗木の価格低下と普及につながった。
弘前のりんご栽培は、初め旧藩士を中心にその広大な屋敷で行われた。すなわち、現在の中心市街地や宅地がその場所に当たるが、旧藩士や地主豪商の生産拡大とともに土地が不足し、園地は次第に南に広がり、堀越、大清水、富田、宇和野(新寺町の南側一帯)、湯口、悪戸等の畑地、原野へと開園が進んでいった。特に、地主豪商は原始的蓄積を元手に、零細農家には手の届かない企業的投資家として植栽から収穫までに時間のかかるりんご栽培の担い手になっていった。この時期、弘前を中心に青森県下にりんごを普及させる上で、旧藩士とともに地主豪商の果たした役割も大きかった。こうして苗木の繁殖と普及が進む中で、りんご栽培は弘前を起源として、県内全域に広がりを見せた。
中でも菊池楯衛は、園芸に強い関心を持ち、りんご栽培以外にも、果樹では日本梨、西洋梨、桃、桜桃など多数の品目を植栽し栽培した。蔬菜は、明治十六年(一八八三)まではもっぱら在来種を栽培していたが、以後は西洋蔬菜として、グリーンピース、トマト、スイートコーン、馬鈴薯(ばれいしょ)、キャベツなど多数の品種を扱っている。また、工芸作物も試み、サトウモロコシの栽培により製糖も行ったが、成功するまでにはならなかった。さらに、樹木・盆栽類などにも興味を示した。後に、長男の菊池秋雄(京都大学教授)は、楯衛の自園について「今から考えてみると、私設の園芸試験場である」と評価している(菊池秋雄編『陸奥弘前後凋園主 菊池楯衛遺稿』一九三八年)。
写真19 菊池楯衛
菊池は、明治十年代初めから、全国各地の博覧会、共進会、品評会に出席し、出品人総代、審査員などを務め、その都度、新知識を吸収し、その普及に尽力した。例えば、同二十六年(一八九三)、岡山県において藺草(いぐさ)栽培と畳表の製造を観察し、藺草の苗を持ち帰り、農家の副業として栽培を勧めたことから、県内において畳表、花筵の製造が広まった。同二十八年には、再度岡山県に赴き、行李柳の栽培地を視察し、苗木を持ち帰り、柳の栽培と行李の栽培を熱心に勧めた。菊池は自園に「後凋園(こうちょうえん)」と命名している。これは論語の「歳寒然後知松柏之後凋」からとったものである(同前)。
写真20 代官町「菊池後凋園」付近
(大正5年「弘前市俯瞰地図」より)