鍋島知事の対応

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鍋島知事は弘化元年(一八四四)佐賀に生まれた。鍋島家の門閥のため、明治二年二十二歳の若さで日県権知事となり、のち日県知事、栃木兼宇都宮県令となったが、一部の人に小児県令と言われた。その後元老院議官となり、本県知事に任命されたのは四十二歳のときである。福島九成前知事の施政に大変革を加えたが、特に重要なのは三〇万円の特別土木工事の中止である。この政策は賛否両論があった。また、保守派大道寺繁禎を南津軽郡長に任命して進歩派弾圧の口火を切った。

写真64 鍋島幹知事

 無神経事件の際は、松沢憲書記官と本県保守派猪股俊策寺井純司らに守られて動ずることなく、翌年広島県知事に栄転、のち貴族院勅選議員となり、男爵を授けられた。中央からは評価されていた。
 鍋島知事を補佐した松沢憲は秋田県新庄の出身で、昌平黌に学び、舎長となり、のち警視庁に入り、鍋島知事の栃木県令時代にその部下として手腕をふるった。鍋島知事は松沢を連れて本県に赴任してきた。事件が表面化してから知事は急遽対策を講じた。長尾介一郎の日記は次のように記している。
 八月三十一日 昨朝在府丁下町ノ書生輩数十名松沢書記官ノ宿所ニ至リ、論弁非常ノ異言ヲ以テ迫リ実ニ軽侮罵言極メシト云ヘリ

 九月一日 今日各郡ヨリ(八戸ヨリモ来ル)来集ノ有志ト唱スル者(是ハ過日後藤伯ノ来県ニ付テ奔走セシ自由党トカ何党トカ唱スル政談員ニシテ今般大同団結ノ協議アリテ来集セシ者ナリト云)及弘前人等(無神経一件ニ付テノ委員トモ)集会所ニ会シ、県知事ヲ退ケ名誉ヲ回復スルノ相談アリ

 九月三日 晩県知事及森書記官其他彼無神経一件ニ関スル官吏等来弘セリト云

 九月四日 郡衙モ知事ノ来弘ニ付テハ種々議論アル由ナレハ夜分ナカラ立寄リテ之ヲ聞合タリシニ、其内郡書記一二名知事ノ宿所ヨリ帰来タレトモ、予等ト同道セルモノノ中大酔者モアリテ紛雑ニ付立出テテ戸長長谷川如泡ノ宅ニ至リシニ、両三名居合セ論談ノ末立出帰宅セリ、元来知事ノ来弘ハ函館ヨリ着港否ヤ県庁ニモ出テス直ニ弘前ニ向ヒタルコトニシテ、其意弘前ニ来リ重ナル各人ニ面接シ十分意中ヲ尽シ人民ノ憤怒ヲ解カントノ旨趣ナリシモ、一般申合ノ上一人モ其宿所ニ至ルモノナシ

      仍テ郡吏ニ説テ平和ヲ試ミ十分郡吏等ノ言ヲ容レシモ、弘前有志ノ意趣并其論スル処ハ中々郡吏等ノ言フ如キノ姑息(こそく)論ニアラサレハ到底纏(まとま)リヘキ模様ニアラス

      故ニ予モ郡吏戸長等ニ郡長ヲ輔翼シ物情ヲ鎮定セントノ意ナラハ、宜シク民心ノアル処ヲ察シテ確タル覚悟ヲ定メ姑息ニ陥イラヌ様ニセヨ、故ニ今直ニ車ヲ雇フテ郡長ノ門ヲ敲キ早ク計画ヲナスヘシ、モシ遅疑スル寸(とき)ハ郡役所モ亦人士ノ為ニ破壊セラルルハ必定ナラント云ヘタリ