明治二十六年(一八九三)十二月、本県出身の自由党代議士菊池九郎、工藤行幹、榊喜洋芽らは、星亨衆院議長除名問題における自由党板垣総理の姿勢を批判して、十数人の同志とともに自由党を脱党した。そして青森県自由党を結成、のち革新自由党と党名を改めたが、二十七年三月一日の第三回総選挙も、同年九月一日の第四回総選挙も定員四人を独占した。第三回総選挙の当選者は、第一区源晟(あきら)・工藤行幹、第二区榊喜洋芽、第三区菊池九郎、第四回は第一区源晟・白鳥慶一、第二区工藤行幹、第三区菊池九郎である。二十七年八月二十日黒石町で南郡革新自由党大会が開かれ、来会者二千余人に達し、未曾有の盛会だった。しかし、翌二十八年八月、県会の半数改選において弘前市の立憲革新党(革新自由党が改名)は分裂、芹川得一、奈良誠之助らは弘前義会を結成、選挙では芹川と関静逸が当選、党首脳の蒲田廣が落選という番狂わせが起きた。自由派の分裂を案じた館山漸之進は菊池九郎らに説いて両者の合同を図り、新たに中弘政社を誕生させた。同社はのちに弘城政社を名乗って本県の進歩党・憲政本党の中核となり、県政や郡政・市政を指揮した。
明治二十九年三月一日、中央政界では、条約改正問題で対外硬の運動に参加していた在野の民党各派が合同して進歩党を結成、衆議院一〇〇人、党首は大隈重信だった。青森県では菊池九郎、工藤行幹ら四代議士も参加し、青森県革新党は解党し、進歩党支部を結成し、事務所を弘前市に置いた。中弘政社は菊池代議士が社長で、進歩党の外郭団体となった。