第五十九銀行の営業状況

379 ~ 381 / 689ページ
普通銀行転換前後における第五十九銀行の営業状況も、『当銀行誌材料書類』に記録されている「営業上失敗の事」と「営業の難易及盛衰の事 第二」の史料からうかがうことができる。その史料から(一)営業上の失敗、(二)支店出張所の設置、(三)日露戦争後の景況、(四)本店の新築、の営業状況を示そう。なお、次の史料も前掲の『青森県史』資料編近現代2からの引用である。
 (一)営業上の失敗 「私立銀行として営業を継続せし以来、遭遇して痛痒を感したる事故は、明治四十年より四十一年に渉りて青森市にありては停車場の拡張、桟橋の改良、或は外国公使館の新設云々の風説よりして、市の近隣の田地原野海岸等まて土地の売買熱勃興せり、故に其売買は甚しきに至り、然れとも永続するにあらさるを以て先き千円に買得したる土地は五百円と云う工合にて低落して其半額となり、或は謀略を巧みし丸あの如き詐欺師に欺かれ、続て増城の如き当銀行青森支店を欺きたる輩あるを以て、爰に観察せは、主任及取扱者の注意を怠りたる事あるへしと雖如何せん、債務者に於ては之を償却すへき資力なく、進んて犯罪者たる処分を甘するか如き情態なるを以て、如何に法廷を煩わすと雖、遂に損失に帰したるは実に遺憾の至なり、其償却に苦心焦慮、着々積立金を為して償却の道を講究に勉めつつあるなり」と青森市において駅の拡張など社会資本整備の計画が出てくると土地買収が活発に行われるが、日露戦争後地価が大幅に下落したことで、債務者らが返済できなくなり、不良債権が生じたこと、また、青森支店が詐欺の被害を受けたりして損失を蒙り、経営の失敗があったと報告されている。
 (二)支店出張所の設置 明治三十一年一月二十四日に貯蓄銀行の営業を許可され、支店出張所が次のように県内外に開設された。
明治三十六年三月一日 青森安方町出張所
同 三十八年十月一日 七戸支店・大釈迦出張所
同 四十年四月一日  八戸支店
同 四十年七月一日  大館支店・扇田出張所(秋田県)

 (三)日露戦争後の景況 「外交談判破裂して三十七年二月七日動員令を発せられ、日露戦端を開くに立至り、天佑によりて海陸共に連戦連捷殆んと人為にあらさるものの如し、国威の宣揚実に全世界を驚愕せしむるに至ると雖、之に伴ふ軍費及国費は誠に巨億の額となり、爰に外債を募り、国債を募集し、特別税を課せらるるに至り、物価騰貴に傾き、金融頗る円満となりと雖、特別税の負担軽しとせす、銀行業者にありては漸々打撃を受け、故に支店出張所を設置して業務の発展に努めたり、普通の商業は物価の騰貴に際すれは、従つて高価に売却すれは別段収入を減するの恐れなかるへきも、銀行業者にありては外資輸入の影響世界の金融となり、利率の準標には従来の習慣を破りて世界利率を準標とするに至り、薄利多費と云う方に傾き、政府にありては、歳入の増加を計り、郵便為替貯金等の制を設けて銀行業者の範囲を幾分か障害するに至り」と日露戦争により経済はインフレとなったことで金利は上がるのだが、外資が入ってきたため金利は世界の標準に合わせねばならず、従来のように金利を上げられず利益が減ったこと。また、政府が郵便為替貯金などの制度を設けて銀行業を始めたことで営業が圧迫された。これらのことで銀行経営が厳しくなったと報告されている。
 (四)本店の新築 明治三十七年、弘前市親方町に落成。建築にあたったのは県下における著名な建築家である堀江佐吉であった。この建物は昭和四十七年、国から重要文化財に指定され、現在は青森銀行記念館として保存されている。