凶作と副業の奨励

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明治後期、三十五年(一九〇二)、三十八年、三十九年と大きな凶作が続いた。明治三十五年の凶作は、中津軽郡では所により皆無作もあり、ほとんどは半作程度であった。中層以下の農民は惨憺(さんたん)たる状態に陥った(斎藤芳風編『青森県凶作惨状』、一九〇三年、弘前市立図書館蔵岩見文庫)。
 同年の各村の減収穫割合は表50のとおりである。
表50 明治35年 各村減収穫割合表
各村名早稲(割歩厘)中稲(割歩厘)晩稲(割歩厘)
清 水375551298
和 徳548496350
豊 田300130380
堀 越474470502
千 年329305100
駒 越535357
岩 木602152682
相 馬341342340
東目屋563444397
藤 代083140
新 和446678446
大 浦664344
船 沢604715146
高 杉333300333
西目屋590626590
裾 野500750813
齋藤芳風編『青森県凶作惨状』、明治36年より作成

 この時期の連続凶作により、周辺農家の顧客で成り立っている弘前市内の商店街は、当然にも、農家の困窮により大きな打撃を受けた。
 津軽産業会では常議員会を開催し、幹事長菊池楯衛の名で県知事、各郡市長に建議書を提出した。第一は「官林開放の事」で、藩政時代の凶作時に救済法として官林の開放により、山林の副産物を自由に採取させたことを教訓にして、実施すること。第二は、藁細工の奨励である。副業としての藁細工は、主として北海道が販売先であったが、良質の製品を作製すれば販路の拡大は可能であり、特に、代官町の弘盛合資会社藁細工の普及に尽力した。第三は、勤倹節約の励行である。第四は、害毒なき野草の摘み取りなど、雑食の推奨を要望し、これらを通して凶作の危機を乗り切ろうとした。
 これらの要望を踏まえて、農会などの指導機関は、米作だけに頼ることは危険として、果樹を含む畑作物も導入すること、それと並んで冬季間において適当な副業を行うこと、労力の分配を計ることが本県農業経済上、最も急用なことであることを指針とした。年間労力の均衡化を計るために、副業として藁細工、蔓細工、柳細工、藺筵、竹細工、木綿機業、木炭製造、寒天、苹果袋作、氷豆腐製造、草履表製造、湯葉製造が冬季間の仕事に最適であると推奨した(青森県農会青森県冬季間ニ於ケル農家副業調査』、弘前市立図書館蔵岩見文庫)。