明治四十年(一九〇七)、県は、弘前市元大工町の津軽産業倶楽部(現東北電力弘前営業所敷地)を借り受け、県立工業講習所を開設することにした。七月には開所式を挙行するまでになり、翌四十一年には第一回製作展覧会が開かれた。短期間の講習生による製作品ではあったが、その技工の巧みさは驚くばかりで、人々に工業講習所の存在を強くアピールするものとなった。
写真110 青森県工業講習所
四十一年九月には、東宮嘉仁殿下(後の大正天皇)が本県に行啓になり、弘前市内各所を御覧になり、その際工業不振を遺憾とされ、奨励のお言葉を賜った。それを契機に工業学校を設置しようとする動きがにわかに活発となった。時の県知事は武田千代三郎であったが、設置場所をどこにするかで一悶着が起こった。
武田知事は、弘前市には従来工業講習所があり、位置としては青森市に設置するのが「適当と知りながらも」、設置を希望する弘前と交渉を重ねてきた、しかしそれは弘前市が東奥義塾を工業学校に変更することが前提であり、弘前市がうんと言わないから、やむを得ず工業学校の位置を青森とすることに決定したというのである。
東奥義塾を工業学校に転用するというのは、当時東奥義塾が経営難から市へ移管、弘前市立弘前中学校東奥義塾となり、そのため弘前市に公立中学校が二校あるので、そのうち東奥義塾を廃校にして工業学校に転用するというものであった。しかし、弘前市は、東奥義塾は弘前にとって由緒ある伝統校であるから転用には応じられないとし、その対立から知事の商工学校の青森市設置案が出されたのである。
事態を憂慮した弘前商業会議所会頭の宮川久一郎は、「県会議員各位に告す」と題して、工業学校の弘前設置に関する意見書を配付し、弘前市に工業学校を設置すべき理由を、やや激越な口調ながら、工業教育機関は工業地に設けるべきこと、また、青森市は風紀上も望ましくないとした。当時、弘前市は県内随一の工業生産量を誇っていたのである。これに対して青森市および県当局から反論があったが、再び県会に意見書を出して再考を促した。
このように、弘前市と県知事の感情的なもつれから問題は内務省と文部省に持ち込まれたが、県知事、弘前市の両方が歩み寄ることで決着した。工業学校の位置は弘前とし、弘前は東奥義塾の変更に努力するというものである。
明治四十三年(一九一〇)四月から青森県立工業学校は弘前に開校することになった。校舎は東奥義塾を転用し、義塾自体も弘前市から県へ移管となった。入学志願者は予想を超えて三・七倍にも達したという。初代校長には工業講習所長を務めていた中原正道がそのまま就任し、これに伴い東奥義塾は廃校になった。