弘前城下最南端の士族の町在府町(ざいふちょう)は丘陵地で、東南に南溜池(鏡ヶ池)が築かれ、大身や上級武士の下屋敷が構えられていた。後、対岸の南側の丘陵に新寺町ができ、両町を結ぶ橋を極楽橋(唐金橋)という。四季の彩りが極楽のように美しかったからである。隣接する相良町(さがらちょう)には槍や弓の指南役がおり、早朝から気合いのこもった掛(か)け声が響き渡っていた。維新の後、八〇戸の在府町から、明治キリスト教の指導者本多庸一、『南島探験』の笹森儀助、大倉喜八郎と組んで実業界で活躍し、郷土振興に尽くした木村静幽、養蚕指導の山野茂樹、津軽塗復興の山田浩蔵、息子で中国革命に殉じた良政、筋向かいの中田家から新聞『日本』の陸羯南、そして平家琵琶の館山漸之進という各分野における偉大な指導者たちを輩出した。
この現象を地元では、一般的な立志伝中の人とは違う北のハングリー精神、学校をかえ、職を転じ、決して安住しない、小成に安んぜず、新しい日本を創造しようとする国粋主義、強靭な個の精神力、つまり津軽魂「じょっぱり」からと見る。その代表的な人物として笹森儀助(弘化二-大正四 一八四五-一九一五)を見よう。