大正七年(一九一八)、弘前商工会主催の第一回観桜会が五月三日から一週間の会期で催されることとなり、運営方法も決まったが、資金がなかった。主催者たちは足を棒にして市内の商店に頭を下げ、寄付金を募って歩いた。一店当たり五〇銭ぐらいが相場で、最高で三円どまりであったが、それでも一千七百余円か集まり、すべてを園内施設費につぎ込み、ようやく開催にこぎ着けたのである。第一回目の試みではあったが、今後は弘前市における最も盛大な行事になるであろうことを見越して、夜桜に電飾を施し、また、各種余興に斬新さを盛り込んだほか、宣伝にも大いに力を注いだ。また、この年は、第八師団設置二〇年に当たることから、祝賀将校招待会、六県酒造業大会、六県電気業大会、県商工協会大会を会期中に催すなど、全市を挙げての行事となったのである。
大正七年五月三日午前七時、打ち上げ花火がとどろき、観桜会の初日が幕を開けた。元寺町、百石町などの大通りでは、日の丸を掲げ造花を飾りつけ、中には紅白の幕を張りめぐらせている商店もあった。二の丸裏手の舞台では、弘前の芸者たちの手踊りが観客を集め、山車・自転車競争・相撲大会・花火打ち上げ等々、多種多彩な余興も繰り広げられた。中でも人気を呼び喝采を浴びたのは、やはり仮装大会であった。市民は桜花に酔い、歓を尽くし、観桜会は成功裡(り)に終わったのである。
写真197 大正期の観桜会風景
その後、弘前観桜会は、弘前商工会の一大行事として毎年催されていくことになる。翌八年の観桜会には、園内にさまざまな出店が現れた。津軽民謡、女相撲、曲芸などの興行見世物も小屋掛けするようになった。公園内で活動写真の映写も行われ、近隣の村々からの花見客に人気だった。また、このころから余興として、東京方面から茶番喜劇をやる芸人や浪曲師などが訪れて、舞台をにぎやかにしている。大正十年になると、天守閣にイルミネーションを施した。このため本丸では、毎夜遅くまで各町会から踊り子が出て花見踊りを続け、活動写真も映写され、花見の宴を張る団体客や観桜団で大にぎわいであった。弘前公園の桜が評判になるにつれて、県外にも観桜会が宣伝されるようになったのは、大正十一年からである。この年初めて、宣伝ビラが奥羽本線秋田方面各駅に配布されている。