金融恐慌の影響が去らない昭和六年(一九三一)、北海道と東北地方を中心にやませが吹き荒れ、未曾有の凶作が起こった。「昭和六年大凶作」である。この時はとくに北海道と青森県が甚大な被害を受け、青森県内で比較的肥沃だった弘前市も大打撃を受けた。弘前市も含め青森県は、二十世紀最大の凶作といわれた「大正二年大凶作」で深刻な被害を被った。だが昭和の農村恐慌は、それ以上の惨劇を市や県にもたらした。
その最大の根拠は「大正二年大凶作」が単発的に終わったのに対し、昭和の農村恐慌が「昭和六年大凶作」以降、長期にわたったことにある。昭和七年には県内に集中豪雨が降り、岩木川の堤防が決壊して弘前市も甚大な被害を受けた。昭和八年は大豊作となったが、りんごにモニリヤ病が流行したため、りんごを特産とする弘前市には大打撃となった。三沢・八戸方面は三陸大津波の被害もあった。そして「昭和九年大凶作」は青森県に致命的な大打撃を与え、多数の身売り女性と欠食児童を生み出した。昭和十年には、弘前市をはじめ県の各地を水浸しにした大水害が起こった。うち続く大災害のために、市当局はもちろん県の行財政機能は全く麻痺し、未曾有の事態となったのである。
毎年続く大災害は弘前市だけでなく、県全体の救済策を要する大問題となった。当時何度も行われた全国各地の地方長官会議や警察部長会議、市町村長会議でも重要課題となっていた。県内で開催された市町村長会議では、県知事主導のもとに青森県内の救済と振興、ひいては東北の救済と振興策を講じ合っている。昭和九年十一月十日の市町村長会議では、すでに凶作が確実となった状況を踏まえ、知事の指示事項も深刻なものとなった。凶作対策事業の施行、市町村財政の確立、政府所有米の払下げと配給、冬期の副業奨励、代用食の奨励、小作紛議防止委員会の設置など、指示事項の大半は凶作対策と窮民救済策で埋め尽くされていた。
弘前市でも金融恐慌に始まる大不況のため、失業者があふれていた。凶作や連続災害は、それに拍車をかけた。市当局は職業紹介所を介して就職を斡旋するなど、さまざまな対応に追われた。昭和八年十月に大阪市で開催された全国方面委員会大会で、「方面委員助成会」を全国的に設置することが決議された。方面委員は窮民救済や社会福利の増進など、今日でいう福祉事業に携わる団体であった。同月下旬、青森県でも設置が決まり、弘前市当局では十一月六日に「弘前市方面委員助成会規則」を制定して、方面委員事業の援助を展開した。
救済事業は市当局だけが展開したわけではなかった。富田桔梗野の旧歩兵第三一連隊跡附近に慈善家の工藤定一が、昭和七年八月から九月にかけて建てた弘前無料宿泊所を忘れてはならない。窮民の宿泊所を建設することに対し、市当局は各地の有識者を歴訪したが、計画に賛成しても寄付金に応じる者は少なかった。工藤は私財をなげうって無料宿泊所を設置したわけだが、『東奥日報』は「要らざる享楽には金を惜しまぬ人はあつても、かうした隠れたる美挙に対して案外冷淡な世の中である」と、工藤に同情している。
こうした東北各地の災害と運動を背景に、昭和九年十二月二十六日、政府は内閣に東北振興調査会を設立し、東北振興政策を立ち上げる旨発表した。政府は国費をもって東北地方の救済と振興に着手したのである。特定地方の救済と振興を、国策として推進する試みは画期的なことだった。東北六県当局をはじめ、各県の諸団体が連合的に活動し、政府に一定の圧力をかけた結果である(詳細については、中園裕「東北振興-地方からの声」沼田哲編『東北の成立と展開』岩田書院、二〇〇二年を参照)。
東北振興問題を考える場合、大手全国紙をはじめとする新聞・雑誌メディアが全国各地で起きた東北振興運動を積極的に報道し、全国的な世論形成に一役買ったことも重要である。青森県の場合、メディアの働きとして『東奥日報』の活動が鍵となった。『東奥日報』は社長山田金次郎の指導のもとに、県内各地の凶作情報を伝え、救済・振興運動をまとめ上げるなど、県民全体の意識を触発した。政財界ないし市町村内の有力者を招いた座談会を数多く開催し、東北振興政策の必要性を強調し、政府への陳情を督促する世論の形成に努めた。この結果、青森県内の東北振興運動は、県民の幅広い支持を引き出したのである(詳細については中園裕「『東奥日報』に見る東北振興運動」『メディア史研究』第一五号、二〇〇三年を参照)。弘前市の場合、東北振興政策はなんと言っても市内を流れる岩木川改修問題に尽きるが、このときも『東奥日報』が大きな役割を果たしていたことを指摘しておきたい。