政府が主導する総動員体制の諸政策は、単に成年男性の徴兵強化だけではなかった。成年男性の徴兵を背後で支えるための社会基盤と支援組織を構築したことが重要である。それが銃後奉公会に代表される「前線」将兵を支えるための「銃後」の社会だった。
昭和十四年(一九三九)七月八日、政府は国家総動員法に基づき、国民を重要産業などに強制的に従事させるため国民徴用令を勅令で定めた。この勅令に基づき、厚生省から府県知事を経て職業紹介所長ないし市町村長に命令が通達され、いわゆる勤労動員が実施された。弘前市でも八月二日、弘前職業紹介所で各市町村長と打ち合わせが行われている。
国民徴用令の公布前にも、青森県では勤労動員政策の一環として青森県軍需要員訓練所を設置していた。昭和十四年二月二日、弘前職業紹介所は各市町村宛に青森県軍需要員訓練所を設置して「適当求職者ヲ一定期間収容シ精神的、肉体的鍛錬ヲ為シ将来幹部工員タルノ素地ヲ培養シタル上適当ナル軍需工場二就職セシムル」こととした。これは軍需動員政策の本格化に伴う幹部候補生の要請措置でもあった。
訓練所は青森市の浜町聖徳公園付近とし、収容人員は三〇人、経営主体は県と青森職業紹介所で、指導職員も同紹介所職員が担った。入所資格は満十八歳以上、二十五歳未満とし、高等小学校卒業程度の学歴を必要とした。訓練方法が冬期の鉄道や市内の除雪を行うとされているところが、いかにも青森県らしい。日課は「軍隊式規律ノ下ニ」進められ、なかなか厳しいものだった。そして訓練後の就職斡旋は「陸海軍作業廠(大体横須賀海軍工廠)ニ職員引率ノ上入所セシメ将来幹部行員タラシ」めるよう指導するものとされた(資料近・現代2No.八七)。
徴兵や勤労動員で徴用された人々を滞りなく扱うことが、行政当局にとってもっとも重要な役割となった。昭和十五年十二月五日、青森県知事名で各市町村長宛に、改めて徴用者に対する処遇について指示があった。指示は以下の三点で、いずれも徴用者とその家族に対する援護政策を徹底させることだった。
①「陸海軍二徴用セラレル者ハ軍属トナルベキヲ以テ応徴者ノ家族ニ対シテハ軍属ノ家族ニ対スル軍人援護ヲ及ホスコト」
②「応徴者ノ壮行、家庭ノ慰問、徴用ヲ解除セラレ帰郷スル者ノ歓迎等ハ応召者ニ準シ之ヲ為スコト」
③「応召兵ニ準シ市町村銃後奉公会等ニ於テモ積極的ニ活動スル事」(同前No.九〇)
動員政策の徹底ゆえに、現場で直接徴用者に接する市町村当局吏員には、徴用者と家族に対する援護を徹底するよう要請された。職業紹介所からも市町村宛に、徴用者の赴任に対する細かい指示を通達している。だが徴用者自体も、寝具や通勤服を持参するなど、相応の準備があるのでたいへんだったのである。
弘前市民はどのような勤労奉仕についたのだろうか。当時の役場文書に『勤労報国関係書類綴』(弘前市立図書館所蔵)という書類がある。そのなかに弘前師団司令部が弘前陸軍病院からの申し出を受けて、勤労奉仕を要請している文書がある。それによると昭和十六年三月七日付で、裁縫修理、理髪、被服繕いなどが挙げられている。裁縫修理は一〇人が毎月七日、理髪は二五人が毎月三日、被服繕いは四〇人が毎月一日と十五日が奉仕日で、四月から毎月実施することとされた。
写真21 勤労動員としての耕作労働
なお、この一ヵ月前の二月八日に、軍隊奉仕協議会が開催され、弘前市長が愛国婦人会、国防婦人会、処女会、商業報国会、産業報国会を前に、「軍事多端ノ為兵隊ハ繁忙ヲ際メテ自己ノ周囲ノ仕事ハ殆ド出来ヌ状態二依リ、依ツテ此際軍隊ニ進ンデ行ツテ洗濯、裁縫、理髪其他ニ手伝ヒタラバ報国都市ノ建設ニ意義アルコトト思フ」と挨拶し、勤労奉仕の実施を積極的に呼びかけている。
太平洋戦争を間近に控え、政府は青壮年層を中心とした軍需動員を徹底すべく、国民登録制の一部として青年国民登録を実施した。弘前市でも弘前国民職業指導所長が弘前市長宛に、登録の年齢範囲を拡張して、女性も一定年齢層にある稼働能力者を登録し、人員動員に遺憾ないよう通達をしている。こうした結果、政府は昭和十六年十一月二十二日、国民勤労報国協力令を公布した。十四歳から四十歳までの男性と、十四歳から二十五歳までの未婚女性の勤労奉仕が義務づけられたのである。