昭和初期の恐慌と冷害凶作

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大正七年(一九一八)の米騒動を契機に、政府は米増産政策をとった。その効果は、植民地で顕著に現れ、昭和六年(一九三一)の移入米は一〇〇〇万石(一五〇万トン)を突破し、国内生産量の二〇%に迫る勢いを示した。
 移入米の急増は、米価下落を招いた上に不作時の価格上昇をも抑制した。さらに、昭和六年(一九三一)、九年(一九三四)、十年(一九三五)と相次いだ冷害凶作は、農家の収入を著しく低下させ、農村の窮乏に拍車をかけた。農業恐慌移入米の激増が「昭和農村恐慌」を現出し、特に東北では冷害凶作が追い打ちをかけた。
 昭和初期の農村は農業恐慌、冷害凶作と続き、わが国の農業の歴史の中でも最も悲惨な状況に置かれた時期であった。米・麦・繭などほとんどの農産物は、「キャベツ五十で敷島(煙草)一つ」と表現されたように激しい価格暴落に陥った。さらに昭和六年と同九年の記録的な凶作は、収穫皆無の農村を生み出し、まさしく「窮乏の農村」(猪俣津南雄『窮乏の農村』改造社出版、一九三四年)がつくり出された。東北地方の農村疲弊は、この時期の最大の社会問題の一つとして取り上げられ、食堂列車から投げられる残飯に群れる子供達の写真や家族の困窮のための「婦女子の身売り」の悲話は、東北農村に国民の関心を集めることになった(帝国農会『復刻版 恐慌下の東北農村』不二出版、一九八四年)。

写真42 『東奥日報』の見出し (左:昭和9年12月3日 右:昭和9年12月7日)

 昭和六年の冷害凶作の被害状況は、県内の水田耕作農家数八万七〇〇〇戸中、被害農家数は七万四〇〇〇戸、うち七割以上の打撃を受けた農家は二万六〇〇〇戸に及んだ。弘前市・中津軽郡の総農家九二三三戸中、被害農家は八一三一戸であるが、七割以上の被害を受けた農家は三二五戸と南部地方と比較すると相対的に少なく、冷害凶作の影響は太平洋岸地域の方がより大きかった(同前)。
 県内では、大正末からこの時期にかけて米作経営は赤字を続け、その中で小作料率はおよそ三割台の高率であったために、津軽地域、特に中南津軽地域では、同じ小作でも換金園芸作物であるりんご小作に有利性を見出し傾斜していった。それゆえ、りんご作付面積は大幅に伸張し、販売額も急増した。りんご販売額は農業恐慌の影響を受けたものの、りんごは稲作と違って冷害に強いこともあり、中津軽郡のりんご栽培農家は青森県や東北の他の地域と比べると冷害による被害を最小限に食い止めることができた。
 しかし、昭和六年(一九三一)冷害凶作の影響はその後も続き、『東奥日報』(昭和八年五月十三日付)は、「凶作が本県農漁村に及ぼした影響」として、「この悲惨事! 売られた娘千五百名」の見出しを掲げている。生活困窮から脱するために「飢えに悩む農民・漁夫・市街地の貧困者」が、県内外に多数の婦女子を「芸娼妓酌婦女工など」として売ったと伝えている。「千五百名」の数字は、昭和七年の一月から五月までのもので、弘前警察署管内では、県内三四名、県外四九名の合計八三名を数えた。なお、年間を通せば県外に身売りされた娘は県全体で二〇〇〇名を超えると推測されている(『新聞資料 東北大凶作』無明舎、一九九一年)。