昭和六年(一九三一)九月十八日満州事変が勃発した。その発端となったのは柳条湖爆破事件である。今日では、日本の謀略によって柳条湖爆破が行われたことが明らかになったが、当時はそのような真相がわかるはずもなく、国民は「暴支膺懲」を叫んで国内には軍国的気分が横溢し、教育もまた軍国主義的色彩を濃厚にした。六年十月二十一日の和徳小学校日誌に「戦死者遺骨出迎ノタメ六学年以上百三十名、二訓導ニ引率サレ弘前駅ニ赴ク」とあり、柳条湖事件が起こって一ヵ月の間に、早くも戦死者の遺骨が弘前に送られてきていることがわかる。同じく十二月二十八日、弘前で初めて防空演習が実施され、市民に近代戦の実感を強く印象づけた。防空演習は満州事変勃発によって行われたもので、市長が指揮者となり軍隊と協同でなされた。市内各小学校がそれぞれ灯火管制事務所となり、在郷軍人、青年訓練所生徒、消防団などが防空団を編成し演習に参加した。演習は二十八日正午から午後十一時まで実施されたが、主力は灯火管制に置かれた。学校は児童に空襲の恐ろしさを説いて一般家庭での灯火管制の徹底を期したが、これが学校現場で戦争教育が行われた最初であったろう。
同年十一月十三日、弘前第八師団に動員令が下り、この日大部隊が弘前駅を出発した。部隊は午後十一時半、十四日午前四時半、同六時半の三回にわたって出発したが、市内小学校三学年以上の男女児童は、三回に分かれてこれを弘前駅前で歓送した。第八師団の渡満後、この郷土部隊への慰問が小学校児童の大きな仕事となった。慰問文を書き送ったり、慰問金の募集などである。試みに和徳小学校昭和七年度(八年三月卒業式)卒業生の慰問行事を挙げてみると、六年十月から八年三月までの一年六ヵ月の間に、出征兵士の慰問文と図画を描くこと二三回、その人員一五〇人、愛国資金として寄金すること三回、出征兵士遺家族慰問の恤(じゅつ)兵慰問金の寄金二回となっている。慰問行事にいかに多くの学校時間が割かれたかが想像できるであろう。