各国民学校児童は割当て日程に従って、岩木川原から礎石にする玉石(たまいし)を運んだ。児童たちは玉石を両手に持って、岩木川と長勝寺を何回も往復するので、中には疲労のため倒れる子があったり、国民学校五・六年はとにかく、三・四年生には無理な作業であった。忠霊塔建設作業は十七年、十八年と続けられたが、十九年に至り戦争激化とともに資材不足もあって工事は一時中止となった。
二十年、日本の敗色が濃い八月に工事を再開し、同月末に完成した。建設関係者が弘前第八師団の名が存在しているうちに完成させようと、突貫工事を行ったものである。竣工式は二十年(一九四五)十一月五日に行われたが、参列した第八師団長は敗戦後のことなので武装解除され、丸腰のまま参列した。このようにして完成した忠霊塔も、進駐アメリカ軍の申し入れがあって、忠霊の「忠」の字を削除、「霊塔」と変えられたりした。戦争中、「皇国民」や「錬成」に名をかり、無計画に、大人の都合だけで子どもたちの労力を利用したが、忠霊塔建設作業などその代表的なものとして、記憶にとどめておくべきであろう(忠霊塔建設については、本章第六節第五項参照)。
写真59 忠霊塔建設奉仕(富田大通町会・昭和17年8月)