通俗教育という言葉を廃し、社会教育という新しい言葉が用いられたのは大正十年(一九二一)である。これは文部省が普通学務局所掌の通俗教育という事項を、社会教育に改称して規定したことによる。
名称が通俗教育から社会教育に改められたものの、本市の社会教育活動は、青年団、少年団、青年訓練所、処女会などの活動のほか、見るべきものはほとんどなかった。ただ、大正十二年(一九二三)八月、弘前出身の実業家藤田謙一寄付の弘前市公会堂の落成が、社会教育の場を広くしてくれた。公会堂を会場に講演会や演劇、舞踊などの催しができたからである。
そのような中にあって、昭和二年(一九二七)八月、官立弘前高等学校が文部省と共催で、七週間にわたって 「成人教育講座」を開いているのが注目される。文部省が社会教育の振興を策して、弘前高校に委嘱して実施したものであるが、当時の本県では、成人教育講座はまだ一般的でなかったため、弘前高校の成人教育講座は教育関係者間で話題になり、本県社会教育史上に一石を投じる役目を果たした。
低調な社会教育がにわかに活気を帯びるのは、昭和六年(一九三一)九月十八日勃発の満州事変以後である。戦争に勝つためのさまざまな活動が、社会教育の名のもとに行われたからである。満州事変、上海事変、そして昭和十二年の日華事変と続くなかで、日本の教育は戦時教育に移行し、昭和十六年十二月八日に太平洋戦争が起こると、軍主導による教育が盛んになって、学校教育と社会教育の一元化が形式上出来上がった。昭和十七年十一月、政府は時局に適応するため各省の事務の簡素化を策し、重点的に強化を図るという方針から、文部省社会教育局は廃止された。
社会教育局の廃止とともに、広汎な社会教育関係の所管事項はすべて新設の教化局に移管された。この部局は従来の社会教育局と宗教局を統合し、新設されもので、社会教育はすなわち社会教化であるべきだとする戦時体制の要求にこたえた措置であった。
中央におけるこのような動きは、直ちに県の機構改編につながり、従来の学務課と社会教育課は合併されて教学課が新設された。教学課は学校教育から社会教育、宗教にまでわたる事項を一元的に所管することになった。
しかし、戦時下において打ち出された社会教育推進の対策は要綱のみにとどまったために、抽象的で具体性に欠けることが多く、それらは実践に移される段階において、日増しに厳しくなる現実に間に合わないのが実情であった。換言すれば戦時中の社会教育は掛け声に終わっただけのものが多かったのである。