県内の社会運動の状況

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昭和九年の『東奥年鑑』(東奥日報社)では、青森県の国家主義運動を次のように記事としている。「昭和六年秋突発した満州事変を転機として著しい擡頭振りを示し、方向を共にする各種団体が生まれて来ているが、本県でもその代表的団体と云はれる神武会の支部が弘前、八戸、黒石の各地方に置かれ、地味ながらその運動の歩を進め、また明倫会支部が弘前、青森にあり、続いて東方会が生まれ、また国士同盟あり、八年から九年にかけて漸く此の運動も活潑となって来ている。然し、未だ表面的にこれと云ふ活動は目立っていない。これは本県としては第一期にあり、昭和九年、十年と活動が具体化するものと見られている」。
 当時、本県の農村事情は急激に悪化していた。指針に小作争議件数を見ると、昭和三年は一九件、四年三七件、五年三二件、六年六七件、七年九八件、八年一五五件、九年一八二件、十年は二八二件と頻発した。原因は、小作料関係が一割で、八割が地主の土地返還要求に対する耕作継続だった。本県の農民組合は、全国的な無産運動沈滞の中にあって、新潟に次ぐ勢力を維持していた。
 県内の左翼陣営はほとんど潰滅していた。『東奥日報』の昭和八年十二月二十三日号に県警察部特高課の取締り状況が報道されている。見出しは「検挙四〇〇名、起訴二二名、県特高課設置以来、思想犯線上に浮んだ統計」とある。
本県の特高事件(主として思想犯罪)は赤化教員事件を掉尾(とうび)として昭和八年は暮れて行く。今年の極左事件は中央のそれと比較して割合に少なかった。これは特高網のここ二、三年来のものすごい弾圧の成果で、左翼陣営の表面上における闘士がほとんど影をひそめたためであるといはれているが、このものすごい本県特高課の弾圧下に共産党関係で一時でも暗い留置場をくぐった者を、県特高課開設以来にさかのぼって調べてみると総数ざっと四百人に上り、このほか小作争議労働争議に伴ふ犯罪で検挙されたものを数へるとその数はおびただしい。
本県特高は昭和三年七月、全国的にその必要に迫られた社会の機運に乗じて設置されたが、その第一矢は四・一六事件(注、昭和四年四月十六日の全国一斎検挙)で六十人を検挙し、大沢、堀江等本県の社会運動の先駆者であり、当時の党運動本県中堅どころが、高等課併置から独立する年の三月に三・一五事件があり、八人を検挙したがいづれも起訴するまでには至らなかったもので、四・一六事件についで特高の矛(ほこ)先は随時県下一帯に向けられ、昭和五年には弘高事件、青森の共青事件(注、共産主義青年同盟・委員長大塚英五郎)で五十人、昭和六年は弘高事件に青訓スト(注、南郡五郷村北中野青年訓練所)、青森一般労働組合の検挙から弘前の共青事件で百十人の検挙があり、昭和七年には三戸、五戸、八戸一円にわたった反帝、共青等党機関誌の配布網から武内完治の検挙に進み、さらに全国的な一〇・一四事件となってこの年を通じて百五十名の検挙を見るに至った。これで本県極左陣営はほとんど壊滅したといってよい。

 教員赤化事件とは、中央における新しい教育研究や教員組合運動と、青森県の昭和初年の農村窮乏とそれに伴う教員の生活問題などの上に発生した。特高は、昭和八年十一月、雑誌『新興教育』や『無産者新聞』の購入者、文化サークルのメンバー、雑誌『いとしご』の読者、母の会、秋田雨雀のエスペラントの会、黒森山夏季大学受講生などを一括して治安維持法に触れるとして二七人を検挙した。留置されたものは九人、有罪とされたのは弘前市境関出身の西郡水元小学校教員相馬寒六郎懲役三年、藤崎町唐牛進と菊池剛は懲役二年(但し執行猶予五年)で、他は退職・休職などになり、後年県の教育次長、出納長となった当事者の菊池剛は、「警察は影におびえて実体を知らなかった。取調べを受けた私等からみれば何か何だかわからなかったが、大山鳴動して鼠一匹ということであろう」と語っている。