昭和七年の五・一五事件の後、斎藤実内閣は挙国一致内閣を樹立、満州国承認、国際連盟脱退を行い、日本は非常時局に入った。しかし、政府を支える政友会は鈴木喜三郎総裁のもとにあったが、四大派閥に分裂して内紛を繰り返していた。一方、文部省や内務省は思想対策の強化に乗り出し、国民精神の作興に努めた。ここに京大瀧川事件が起き、また、共産党最高幹部佐野学、鍋山貞親の獄中での転向が行われて、左翼陣営に大打撃を与えた。
この昭和八年五月一日を中心に県下の二市一五八ヵ町村会議員選挙が行われたが、各党の得票数は、政友七万三〇票、民政四万四〇〇〇票、無産五九〇票、中立一万六〇〇票で、政友会が三分の二弱、民政派三分の一強、他は中立派たった。そして、弘前市会においては、政友派九人、民政派七人、興新同盟(民政党を脱退した菊池良一代議士派)四人、中立派一〇人が当選、佐藤要一、工藤道生らの大物が落選した。三〇人の所属派は次のとおりである。
また、弘前の政党の代表者は次のとおりである。
立憲政友会青森県支部弘前分所長 近藤東助
″ 分所顧問 石郷岡文吉 工藤十三雄
″ 幹事長 木村象一
立憲民政党青森県支部中弘分所長 藤田重太郎
″ 幹事長 福山眞兆
国民同盟青森県支部 支部長 山内亮
″ 総務 菊池長之 竹内助七 柏幸次郎 他
″ 顧問 菊池良一 小野謙一 成田匡之進 他
弘前興新同盟 理事長 竹内助七
顧問 菊池良一 菊池長之