昭和十七年(一九四二)四月三十日実施の第二一回総選挙を翼賛選挙と別称する。昭和十二年に選ばれた議員は任期満了となっていたが、第二次近衛内閣は日中戦争の重圧に苦しむ国民の不満が爆発するのを恐れ、任期を一年延長していた。
太平洋戦争の緒戦の勝利で、東条英機内閣は政府に有利な政界刷新をねらい、事実上の推薦選挙とする方針を打ち出した。このとき各界代表者(陸海軍大将四、財界七、貴衆議院一四、大政翼賛会三、農業団体三、他二)に翼賛政治体制協議会を結成させ、全国的な候補者推薦運動を展開した。会長は元首相で陸軍大将阿部信行、幹事は藤山愛一郎、大麻唯男らで、全国会員七四二人は会長指名、選挙後に解散する組織で、その使命は私心を去って大御心に沿い奉る、旧来の選挙を粛正する運動という建前だった。選挙は臣民道であり、神社を投票場にせよという声まであった。
東条首相はラジオで、町内会、部落会、隣保班を通して啓蒙運動せよと演説し、青森県でも山田俊介知事を先頭に県下六一ヵ所で映画や講演会を行った。県会も十七年三月十日「大東亜戦争完遂の決意を新たにし、翼賛議会の確立に最適の人材を選び、選挙の倫理化を徹底する」という宣言を出した。立候補者を推薦する青森県の地方協議会は東奥日報社社長山田金次郎を委員長とし、三市八郡から一四人の委員を選出、弘前市と中郡からは鳴海康仲・三上直吉・藤田重太郎が選ばれた。さらに下部に協力会をつくり、弘前市は神山隆文、伊藤金蔵、中郡は柳田保三が委員となった。県民の関心を高めるため標語を募集したが、第二席に弘前市高崎の木村源逸「九段の神霊(みたま)に恥じない一票」、第三席に元和徳町の矢田尾光「正しい一票 手近かな翼賛」が選ばれた。しかし、選挙戦は低調だった。もっとも、号令により全国の投票率は八三%に上った。
推薦候補者は臣民道実践のため明鏡止水の気持ちで選ぶと山田委員長は語ったが、実際は警察と軍の秘密情報を多く利用した。選ばれた候補者は衆議院の定数と同じ四六六人だった。
この選挙の立候補者総数は一〇七九人、当選者の内訳は推薦候補三八一人(うち現職二〇〇人)、非推薦候補八五人(うち現職四七人)、非推薦の全得票数は四一九万票で得票率三四・九%に及んだ。五月二十日、東条首相の要請で翼賛政治会(総裁阿部信行)が設立され、事実上一国一党体制が成立、議会は政府の協力機関と化した。
この官員参加の翼賛推進運動は違法で、しかもこれまでの憲政の業績を否定したものと安藤正純らの議員は議会で批判、東条首相は「官選説は誤解で政府は選挙に干与せず」と答弁した。しかし、官憲による露骨な選挙干渉が行われ、大審院で選挙無効の判決が出た例もあった。
弘前市や中津軽郡を含む青森県第二区では、定員三人に対し三人の翼賛推薦候補が立てられ、その中の前代議士工藤十三雄と、同じく前代議士小野謙一は落選、新人の竹内俊吉のみ当選した。他の二人は旧民政党の長内健栄と満州国高官たった楠美省吾だった。第二区の選挙について昭和十七年五月二日付『東奥日報』は次のように報じている。
投票率
弘前市 八〇・〇% 中津軽郡 八三・一% 青森県 七九・七%
第二区(定員三名)
当選 一〇、三四三 竹内俊吉(新・推薦)
同 九、八七七 長内健栄(新)
九、三九九 楠美省吾(新)
次点 八、五一七 工藤十三雄(前・推薦)
七、六七六 齋藤俊治(新)
五、七五〇 菊池良一(前)
四、二五七 小野謙一(前・推薦)
三、〇二五 外崎千代吉(新)
二、九五〇 本郷松春(新)
二、一四六 仁尾勝男(新)
一、九六一 菊池仁康(新)
この結果について『東奥日報』コラム欄「公言私語」は「第二区において古豪工藤、菊池、小野三候補枕をならべて討死せるも時の勢いながら、国民が如何に清新にして有為なる人材を待望していたかを物語るものでないだろうか。戦時下少壮気鋭の士を求めつつある空気の反映でもある。第二区における推薦候補は新人一人の当選をみたのみ、翼協としても推薦に多少の無理があったのではないかを思わせるものがある。ともあれ同じ選挙区から三十八才、四十三才の壮年代議士を送ることは大東亜戦争完遂の清新議会確立のため意を強くするもの」と評した。
そして、五月三日の「本県翼賛の回顧」では、(一)候補者の濫立、(二)翼協を母体とする推薦選挙制、(三)挙国啓蒙運動が特徴だったと見る。そして翼賛壮年団の活動が大きかったとし、選挙運動と啓蒙運動の線がはっきりせず問題だが、やはり時の流れをマザマザ感じさせられたと書いている。