弘前市は戦後の世相が観光に力を注いでいることにちなみ、市にも観光政策を本格的に導入するための機関が必要だと認識していた。事実、弘前観光協会設立の趣意書には「終戦後の我が観光界の今日に即し能(よ)くその目的達成を計り個々の関係機関が互に緊密なる連絡協調を完(まっと)うし統制ある綜合機関の設立こそ最も必要であります」との文言があった(資料近・現代2No.五八五参照)。
弘前市内には協会設立の趣意書にうたうだけの観光名所が多数あった。天下の七名城といわれた弘前城をはじめ、城内には松の大木と膨大な数の桜がある。最勝院には最北の五重塔があり、長勝寺や八幡宮には国宝建造物がある。市街地だけでなく、背後には津軽富士と称される岩木山がそびえ、その前を岩木川がゆったりと流れ、津軽平野が広がっている。弘前市の周辺には大鰐、蔵館、碇ヶ関の温泉もある。「春夏秋冬の四季遊覧の好適地として何れ(いず)も観光客を誘致するに充分の資格」があったのである。
こうして昭和二十五年(一九五〇)七月十二日、「弘前市及びその近郷に於ける観光諸施設を急速に整備し、観光客の便を図るは刻下の急務」として、弘前市長岩淵勉を発起人とする弘前観光協会が設立された。
協会の設置目的として会則第一条には「弘前市を中心とする観光地の宣伝紹介並びに諸施設をなし弘前市及びその近郷の発展に資するをもって目的とする」とある。観光協会は弘前市だけでなく、市を取り巻く広域的発展を見込んでいたのである。協会の構成員は会長に市長、副会長に市議会議長と商工会議所会頭、事務理事に弘前市助役がそれぞれ就任した。他に常務理事や理事、評議員、監事を、会員中より会長が委嘱した。事務所は弘前市役所内に置かれ、事務を処理するため主事、技師、書記、技手をいずれも若干名置き、会長が任命した。つまり実質的に市役所職員が事務を担当していたわけである。