また、代表作の一つに『巨いなる樹々の落葉』(昭和五十一年 津軽書房刊)がある。芥川賞の候補ともなった「旅雁の章」と「雷鳥の章」「朱実の章」の三部からなるこの長編は、郷土作家研究会員の舘田勝弘の言を借りれば「滅び行くアイヌ民族の象徴として北見旅雁の生涯が一大叙事詩として語られる」物語である。
ところが、この三部作が発表されたのは、実は昭和十三年から十五年にかけてのことなのである。すなわち、発表から三十数年ぶりに単行本化され、戦争を挟んで価値観が大きく変貌したなかで、時間を超えてなお、いささかも瑞々しさを失っていないところに、この作品の普遍的な価値を見ることができる。知的で詩情あふれる今官一の文体が優れているからである。
今官一にとって、福士幸次郎を〈人生の師〉とすれば、新感覚派の旗頭・横光利一は〈文学の師〉、そして太宰治を〈文学の友〉と呼ぶことができる。官一が昭和五年に再上京したとき投宿したところが幸次郎の隣家であった。幸次郎の推薦もあって、やがて横光利一に師事し、文学修行を積んでいたとき、同人誌「海豹」の創刊の話が持ち上がり、官一が太宰をその同人として推挙したのである。
太宰の天才をもってすれば、いずれは作家としての名声を獲得したにしても、もしこのとき、官一が太宰を強く推挙していなければ、太宰の出発は、あるいは遅れていたかもしれない。また、詩人の山田尚(やまだしょう)は太宰がキリスト教へ向かった遠因を官一にみているが、興味深い考察である。官一は、この後も「青い花」「日本浪曼派」などの同人誌で太宰とともに歩むことになる。よき友であり、ライバルであった二人は、郷土の先輩作家である葛西善蔵の文学碑を建立することを誓っていた。善蔵を敬愛していたからである。官一は中学時代にすでに善蔵の傑作「湖畔手記」所収の、絶唱ともいうべき「秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く渋く、タネあるもかなし、おせいもかなし」の歌に深い理解を示していた。その善蔵の文学碑が建立されたのは、今官一が『壁の花』で第三五回直木賞受賞(資料近・現代2No.六六五・六七四)の報(しら)せを受けた翌日であった。奇しき縁、というほかない。
写真257 今官一