漆工芸と日本画

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このように明治期の本県の美術工芸の分野において最も活発な活動を示したのが、漆工芸日本画であり、その活動の中心となる工芸家・日本画家が弘前に集中しているのは、弘前藩の体制の下で、中央に通じる文化が育まれていたことを意味していると思われる。
 万国博覧会、勧業博覧会、日本青年絵画協会等の明治期の主要な博覧会・展覧会の中で、本県出身者で最も活躍したのが野沢如洋である。三上仙年に学んだ如洋は、明治二十六年京都に上り、今尾景年(いまおけいねん)(弘化二-大正一三 一八四五-一九二四 京都)に師事し、円山・四條派を習得、山水画の名手と言われ、毎年のようにさまざまな画会に出品し、上位の成績を収めていた。明治三十七年から中国に渡り、四年間研鑚(けんさん)を積んで帰国してからは、反官展の姿勢を貫き通し、水墨画家として孤高の道を歩んだ。

写真266 三上仙年『孔雀に牡丹』

 また、仙年と仙乙の博覧会や共進会への出品も多い。仙年、仙乙はともに幕末期に多彩な才能を発揮した平尾魯仙(ひらおろせん)(文化五-明治一三 一八〇八-一八八〇)の高弟といわれた。豪壮で威厳のある作風の仙年と優美な作風の仙乙は好対照な作品を残している。仙年の門からは如洋のほかに工藤仙来(くどうせんらい)(文久三-昭和一九 一八六三-一九四四)、工藤晴好(くどうせいこう)(本名相馬タケ、深浦町出身、弘前在住 慶応三-大正一四 一八六七-一九二五)ら多くの門弟が輩出した。
 高橋竹年日本画家でもあった父・米舟(べいしゅう)(安政三-昭和九 一八五六-一九三四)から絵の手ほどきを受け、七歳のころ、早くも京都博覧会に出品している。明治の終わりごろに大阪堺市に転居し、出雲大社、住吉大社に絵を納め、県内にも岩木山神社玉垣、中門の天井画などの神社仏閣に作品を残している。竹年は特に動物画に抜群の腕を発揮した。

写真268 高橋竹年『群猿』

 このように本県の明治期の美術の活動は、幕末から継承した漆工芸日本画が主流を占めることになり、維新後に西洋から導入された洋画に関しては、幕末にチャールズ・ワーグマン(イギリスの画家。一八六一年来日 天保三-明治二四 一八三二-一八九一)から洋画を学んだと言われている松野治敏(まつのはるとし)(嘉永四-明治四一 一八五一-一九〇八)の例を除き、本州最北端に位置して地理的に不利な本県においては、明治期の中央洋画美術団体に本県の関係者がいないことからもわかるように、大きく立ち後れることになった。