戦後美術界の復興

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疲弊しきっていた青森県人に追い打ちをかけるように、昭和二十年(一九四五)七月二十八日深夜、県庁所在地の青森市が空襲され、市内のほとんどは焦土と化した。その翌月の八月十五日、日本敗戦国として終戦を迎える。それまで年一回の美術展を開催し続けてきた東奥日報社も、昭和二十年と二十一年の秋の東奥美術展の開催は見合わさざるを得なかった。ただ一つ、弘前の美術団体国土社だけは、この秋も公募展を開催、戦後の県内の美術活動の記念すべき第一歩を記したのであった。青森県内で戦前成立されたグループの中で現在も継続しているのは、国土社青丘社の弘前の二つの団体だけである。
 一方、中央の動きをみると、戦前の新文展は昭和二十一年(一九四六)に日展と名称を変え、さらに二十三年(一九四八)には主催が日本美術院になり、その時点で明治期より始まった長い官展の歴史を閉じることになった。財団となった日展は日本画洋画、彫塑、工芸、書の各分野を包括する我が国最大の美術団体として、現在も大規模な美術展を年一回東京の上野で開催している。この日展で活躍したのが、彫刻家三国慶一・古川武治(こがわたけじ)(大正七-平成一六 一九一八-二〇〇四)と洋画家の奈良岡正夫(ならおかまさお)(本名・政雄、明治三六-平成一六 一九〇三-二〇〇四)である。
 三国慶一は、小学校高等科のころに彫刻早坂寿雲(はやさかじゅうん)(本名・前田鉄之助 明治五-昭和四 一八七二-一九二九)に師事し、十四歳で上京後は寿雲の弟の前田昭雲について学び、大正五年の文展に初入選する。東京美術学校在学中も帝展に入選し、以後、新文展、日展と続く一辿の官展、及び財団となった日展でも審査員や評議員、参与を務め、日本彫刻界に重きをなした。

写真279 三国慶一『清泉』

 同じく彫刻家の古川武治は、三国慶一に師事し新文展に初入選、日展では連続特選を受賞、木彫による裸婦像をはじめ県出身の力士の像を数多く制作した。
 奈良岡正夫は、昭和二十一年に日展に初入選後、特選、会員、審査員、評議員の後に参与までになり、日展を代表する一人として活躍した。また、日展の活動とは別に、戦後の混乱の中で他の美術団体が復帰再興ができないなかの昭和二十二年二月、石川寅治らとともに「示現会」を発足させ、翌二十三年に第一回示現会展を開催した。この中央の動きに賛同した盛忠七(もりちゅうしち)(明治三四-昭和三三 一九〇一-一九五八)らは、二十四年正夫を中心に弘前市に示現会青森支部を結成した。初代支部長に忠七、二代目に鳴海健次郎(なるみけんじろう)(明治四二-平成一二 一九〇九-二〇〇〇 つがる市)、三代目に長内亮(おさないりょう)(昭和元年- 一九二六-)を据え、現在に至っている。

写真280 奈良岡正夫『山羊』

 東奥日報社は、前年休止した東奥美術展(東奥展)を昭和二十二年秋から再開したが、昭和三十二年(一九五七)に東奥展の一般の部が廃止され、児童の部のみの公募展となった。これにより、県内作家の間から東奥展に匹敵する展覧会開催の要望が高まり、それにこたえる形で昭和三十五年の秋に青森市内で青森県美術展(県展)が開催された。県展の主催は、その前年に発足した青森県文化振興会議である。県展の発足・運営に深くかかわった彫刻家画家に齋藤賢佶(さいとうけんきち)(有馬賢吉)(明治三五-平成四 一九〇二-一九九二)、松木満史(まつきまんじ)(明治三九-昭和四六 一九〇六-一九七一 つがる市)、黒滝大休保坂哲士高橋竹年竹森節堂らがいる。