NHK弘前局が昭和十三年(一九三八)に開局になり、昭和十七年九月には『弘前放送子供会』が誕生し、『少国民の時間』に唱歌組曲『豊かな秋』が放送されている。この子供会が児童合唱団の先駆けとなった。そのころには小島正雄が率いる弘前コーラス会もあった。
弘前子ども会は、佐藤徳男(さとうとくお)、千葉寿雄(ちばとしお)、小島正雄、伊藤秀俊(いとうひでとし)が中心となり昭和二十一年(一九四六)に組織され、練習場は東奥義塾体育館を用い活動した。演劇・舞踊・音楽の総合芸術活動により地域の文化の活性化と芸術家育成に効果があった。その中からは、舞踊畑の成田(なりた)はる、青山洋子(あおやまようこ)、工藤新子(くどうしんこ)、山崎草子(やまざきそうこ)などが、音楽では山崎祥子(やまざきしょうこ)などが輩出している。後に舞踊部・演劇部・音楽部に分かれて独自の活動を続け、音楽部は昭和二十九年弘前放送児童合唱団と改まって、NHK弘前放送局の専属となる。地域の音楽家は作品を主としてNHKローカル・ラジオで放送しながら、活動を推進することができた。音楽の指導者として、後に工藤健一なども加わった。ラジオをルーツとして現代のテレビ文化がある。弘前においても同様の流れとして捉えることができる。
青森県作曲家協会初代会長阿保健のリーダーシップによる『音楽展』が、昭和四十七年から初演作品を条件として毎年開催され、地方でありながら、時代の先端を行く前衛音楽の活動として、全国的に注目されている。
作曲に関して述べれば、若手作曲分野で「桜の園コンクール」(Kミュージック・ラボ主宰)が市などの後援を得て平成十四年から開催されている。地域芸術の水準は、演奏活動よりは、いかなる創作活動を行っているかで計り得る。
器楽関係では、明治三十二年(一八九九)弘前女学校の宣教師アレキサンダーの夫人が火事で焼死した際に、市内から集められた「弘前音楽隊」が市内をパレードしている。楽団へと発展しただろうアンサンブルの音楽形態の一つにジンタ(市中音楽隊とその音楽)があり、日清戦争(明治二七-二八)を契機として全国的に普及した。弘前愛成園の設立者佐々木五三郎は大正三年(一九一四)に映画常設館「慈善館」(昭和四十一年三月閉館)を設置したが、そこでラッパやアコーディオンによるジンクが客寄せのために演奏された。時々に結成されたアンサンブルが現代のオーケストラへの道を舗装してくれたのである。
『青森県文化芸術団体一覧』(青森県環境生活部、二〇〇三年)によると、「器楽」として弘前市には一三団体があり、その中で弘前交響楽団(設立昭和六十三年)、弘前バッハアンサンブル(同昭和六十年)、弘前市吹奏楽団(同昭和五十九年)、パーカッショングループ・ファルサ(同昭和五十四年)、北の四重奏(同昭和五十七年)などが積極的に演奏活動をしている。
弘前オペラは、長坂幸子(ながさかさちこ)弘前大学助教授(当時)を顧問とし、昭和四十六年に発足した。初めはピアノ伴奏、手製の衣装、舞台装置から徐々に充実させて現在の、演出家を呼び、オーケストラ伴奏で上演するまでに発展した。
金子登(かねこのぼる)を指揮者に迎え、昭和四十五年から始まったメサイヤ演奏会は毎年クリスマス時期に開催され、市民に愛されている。
「弘前詩と歌の会」は平成四年に解散したが、弘前市在住の声楽家たちが二〇年にわたって特色ある演奏会を開催していた。イタリア、フランス、ロシアなど諸外国の詩を原語で朗読し、文学者の解説に続いて歌うという活動であった。
『青森県文化芸術団体一覧』には声楽として一六団体の名がある。戦後に労働者文化活動としての「うたごえ運動」が全国に盛んになり、昭和二十五年以降県内でも多くの団体が結成されている。日本合唱連盟に参加すべく、昭和三十五年に青森県合唱連盟が結成され、現在は五〇を超える団体が加盟している。主な合唱団を挙げれば、弘前メンネルコール(設立昭和三十一年)、弘前ブルンネンコール(同昭和三十七年)、うらら会(同昭和二十九年)、おじちゃまコーラス(同昭和三十年)、ねむの会(同平成二年)などである。学校を組織母体とし、全国大会金賞を受賞するまでの実力を備えている団体については前述した。