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(一)行基

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 行基は和泉國大鳥郡家原の人、[日本靈異記に、越後頸城郡の人に作る](一乘山家原寺緣起、元亨釋書、日本往生極樂記)俗姓高志氏、天智天皇の七年生まる。(一乘山家原寺緣起、元亨釋書)十五歳出家して法行と稱し、(一乘山家原寺緣起)大和の藥師寺に入り、新羅の僧慧基に就いて、瑜伽、唯識等を學び、(元亨釋書)名を行基と改め、(一乘山家原寺緣起)道昭、智鳳、義淵に從つて、其蘊奧を究め、慶雲元年父の菩提の爲めに、家原の居宅を喜捨して佛寺とし、(一乘山家原寺緣起、行基年譜)自ら大和の生馬山に隱棲して、老母に孝養を盡くしたが、母の歿後、【衆生化導】出でて四方に遊んで衆生を化導した。(行基大菩薩行狀記、行基年譜)都鄙到る處、歸依追從するもの數千人に達し、養老元年四月には嚴に行基及び其徒を戒飭するに至つた。斯くして諸國を遍歷して行化に力め、兼ねて土木を興して民利を圖つた。次いで天平十五年聖武天皇廬遮那佛造立の本願を起したまふに當り、勅を拜して伊勢に赴き、太神宮の神託を請ひ、(東大寺緣起)又天皇近江の紫香樂宮に御して、廬遮那佛像造立の爲め、始めて寺地を開かるゝに方り、諸弟子を率ゐて衆庶を勸誘した。(續日本紀)功を以て十六年勅して行信を遣はし、封戸九百を給し、(行基年譜)十七年(續日本紀には、十八年に作る)正月大僧正に任ぜられ、(一乘山家原寺緣起、僧綱補任)度者四百人を賜はつた。大僧正の官實に此に始まる。其畿内に創建した諸寺院の中、【高渚寺】和泉の高渚寺は大鳥郡葦田里にあり、鹽穴鄕に屬する。(行基年譜)【堺に於ける開創の寺院】堺に於て行基の創造と稱へらるゝ寺院に、念佛寺向泉寺鹽穴寺極樂寺東光寺淨得寺等がある。(念佛、向泉、鹽穴、淨得各寺緣起、堺南北寺庵本末開基宗旨改帳、堺鑑中)【三國の布施屋行基は又三國衢布施屋を設け、行旅に便し、(泉州志卷之一、和泉名所圖會卷之二)【向泉寺井鹽風呂向泉寺の井、鹽風呂行基の開鑿に係るといはれ、更らに(向泉寺及び旭蓮社緣起堺鑑中)【四箇所三昧】堺四箇所の三昧、卽ち湊、向井領、皇子飢及び七度濱亦皆行基の開創したものと稱せられてゐる。(堺鑑上)天平勝寶元年正月十四日、天皇、皇后は、行基を宮中に請じて菩薩戒を受けられ、大菩薩號を賜はり、(法中補任、元亨釋書、東國高僧傳卷第一)次いで同年二月二日菅原寺の東南院に示寂した。世壽八十二。[續日本紀、日本往生極樂記には、享壽を八十とす](一山家原寺綠起、大僧正乘舍利甁記、元亨釋書)