三好義賢(一に之虎、或は元康、又は之康に作る)は元長の二子で、長慶の弟に當る。(阿州將裔記、三好別記)從五位下に敍し、豐前守と稱した。阿波の細川氏に隸し、三好城に居り、後勝瑞城に移つた。【義賢の自立】天文二十一年八月義賢其主細川持隆を弑し、持隆の邑多くは義賢の支配に歸し、軍容頗る揚がつた。(阿州將裔記)芝原城主久米義弘其主の仇を報ぜんとし、兵を擧げて義賢と戰つたが遂に敗死するところとなつた。義賢、松永久秀等の誣言により長慶と隙を生じ剃髮して實休と稱し、又物外軒と號し、厚く陳謝した。歳二十七のことである。六角義賢、細川晴元の二子晴之を擁し、長慶、宗三等の奉ずる細川信良に對抗し、永祿四年七月義賢將軍山に出陣し畠山高政曾て幕府の命に悖り、紀州廣浦に假居せるものを大赦して北上せしめた。高政は根來の僧兵を催し、岸和田城を攻めた。城には實休、安宅冬康、三好山城守、同下野守等之を守備し、阿淡の兵を以て拒いだ。【久米田の職】永祿五年三月久米田に陣し、篠原長房、高政等を破つたが、實休は中軍にあつて其兵寡きを見て高政之を衝き遂に敗死した。享年三十七。法號を龍音寺殿以徹實休といふ。(三好別記、日珖筆己行記)妙國寺に構營された石塔に妙國院殿光德實休と鐫刻せられたと傳へてゐるが、(堺鑑中)今は其所在を失してゐる。
實休は深く僧日珖に歸依し、邸地に寺塔を建立せむとしたが、終に果さずして歿した。(己行記)又紹鷗に學むで、茶湯を能くし、(十河物語)名物の茶器を有し、之を實休肩衝と稱した。(茶人系傳全集)【紹鷗の追善】其追善に紹鷗は、茶會を催し、影前に獻茶し、
石川やせみの小河の清ければ、月も流を尋てぞ、すむもにごるも同じ江の、淺からぬ心もて、何疑の有べき、年の箭の早くも過る光陰、おしみても歸ぬは本の水、流はよもつきじ、絶せぬぞ手向也ける。
此小歌を謠ひ、泪にむせんで立つたといふことである。(十河物語)