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(六)細川晴元

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 細川晴元は澄元の子、小字を聰明六郞と稱した。永正十六年澄元細川高國と、攝津に戰ふて敗れ、高國は城を尼崎に築き、威を畿内に振ふた。三好長基等晴元を擁して上洛を企てたが、大永六年十二月細川澄賢を先鋒とし、三好左衞門督、同政長等之に從つて堺に着津した。七年二月政長等、京都に侵入し、やがて將軍足利義晴の近江落となつた。【晴元と堺の政所】三月長基足利義維及び晴元を擁して堺に抵り、政所を開いて之に居らしめた。時に義維十七歳、晴元十四歳であつた。七月晴元は足利義維と共に元服を加へ、阿波、讃岐、土佐、淡路及び備中等の兵を募つて、和泉を壓し、長基は攝津に入つて高國黨の伊丹元扶を討つて克たず、次いで高國大兵を率ゐ入京するに及び、享祿元年正月長基は私に高國と講和したが、政長等は之を肯ぜず、晴元に讒した。三年浦上則宗は高國を援けて攝津に入り、晴元は和泉の兵を派し藥師寺國盛をして尼崎大物城を守らしめた。更らに十一月國盛は高國方に降つて、城は陷落した。國盛先に晴元に降るや、此歳七歳の幼兒を人質として堺に居らしめたが、人皆其子を捨つるを惡んだ。其幼兒は、遂に翌四年三月十五日堺北の釋迦堂(現福成寺であらう)に於て自殺してゐる。(細川兩家記)斯くして高國西上の勢盛んで三月前進して堺浦に迫り、士民皆驚愕した。閏五月三好筑前守等は、住吉の澤の口、遠里小野に、三好山城守等は、吾孫子、苅田堀に陣し、六月四日長基は敵を天王寺に攻めた。【高國の敗死】高國敗れて尼崎に走り、八日終に大物の廣德寺に於て自殺した。(細川兩家記)晴元は先に政長等に隔てられ長基を憚つたが、長基松本堅治の子神四郞を京都三條城に攻むるに及び晴元大に怒り、長基は堺南莊に引籠り髻を切りて海雲と號し、持隆によつて晴元に陳謝したが、用ひられなかつた。持隆之を憤り、享祿五年三月阿波に歸つた。(細川兩家記)【長基の堺防守】長基は畠山總州、丹波の波多野、大和國衆を語らひ、堺南莊に立籠り、大小路の木戸を閉ぢて、南北の交通を絶つた。是に於て攝泉の國人、或は晴元に屬し、或は長基に黨し、互に相反噬した。五月本願寺光教晴元に應じて、長基と堺浦に戰ひ、長基利あらず、六月二十日顯本寺に入つて自殺した。(細川兩家記)天文六年八月晴元は從五位下に敍し、右京太夫に任ぜられ、後從五位上に陞つた。十五年遊佐長教は、高國の子氏綱を援けて亂を謀るや、晴元三好長慶をして之に當らしめたが利を失ひ、晴元は四國の兵を集め、やがて十河一存等の來援となつた。時に將軍義晴京都の東山に在つて、三好氏等の己に薄きを以て遊佐氏に傾き、天文十六年近江の兵と連合して京師を襲はんとした。義晴之を知つて、湖南坂本に走つた。【晴元の活躍】次いで晴元は弟政之、長慶等と攝津の諸城を拔き、河内に入つて氏綱、長教と戰ひ、翌年和を講じた。晴元は父長基の事により長慶と善からず、十七年長慶は氏綱に屬した。十八年三月長慶其族政長(入道宗三)と相反目し、晴元は宗三を援けた。是に於て長慶は、宗三の中島城を攻めて之を走らした。晴元は三宅城に據り、定賴は其子義賢をして晴元を援けしめんとしたが、未だ發せざるに六月長慶は一存をして三宅城を攻めしめた。晴元は纔に逃れて京師に走り、宗三は江口に圍まれて遂に自殺した。將軍義藤十九年晴元、定賴をして如意嶽に中尾城を築かしめた。長慶は京師に入り、火を放つて中尾に迫り、晴元の部下之を拒いで敗走した。二十年七月晴元の部下相國寺に屯集した。長慶松永久秀をして火を放つて之を逐はしめ、將軍義藤將軍山に出陣するに及び長慶和を乞ひ、二十一年議成り、氏綱を管領とし晴元は近江堅田に剃髮して、名を一清と改め、其踪跡を晦ました。義藤之を憐んで、食祿を與へたが、晴元復其黨を集めて、長慶に背き、將軍義藤亦之に結び、同二十二年其攝、河、泉の大兵を率ゐ入京するに及び、義藤、晴元は近江朽木に奔つた。次いで永祿元年長慶及び松永久秀等亂を作し、義輝又晴元と坂本に走り、既にして和を議して京師に還り、【晴元の幽閉】長慶晴元を囚へて之を芥川に幽閉した。同六年三月晴元は享年四十五歳を以て卒した。法名を一清龍昇院といふ。