宗訢、字は笑嶺、喝雲叟と號した。伊豫難波庄の人、俗姓は越智、河野の冑族高田氏の子である。幼時同國の宗昌寺に入つて出家し、京都に上り、南禪寺の牧護庵に入つて書記に任ぜられた。當時古嶽宗亘大德寺に在つて化導の盛んなることを聞き、【古嶽の記室となる】見參して記室となり、日夕心要を究むる事十年、一日萬法と侶たらざる話を擧示するを聞き、忽ち契悟し、第二座となつた。後堺に下り、【南宗菴に抵る】南宗菴に入つて大林宗套に請益し、倍々精彩を加へ、終に其奧旨に達して印可を付與せられ、又其性質の快濶にして胸中一點の蟠り無きの故を以て、笑嶺の號を授與せられた。(祖心本光禪師行狀(泉州龍山二師遺藁卷之下))永祿元年十月、【大德寺出世】勅を奉じて大德寺第百七世の住持となつた。次いで三年四月再住開堂した。(紫巖譜略)斯くして亦攝津廣德寺に入り、又竺堂の創業で、明極派の名藍たる、攝津尼崎の栖賢寺主、華庭座元の懇請によりて之に移つた。【長慶の法要の導師】九年河内眞觀寺に於ける三好長慶の法要には導師となつた。後長慶の嗣子三好義繼が、父菩提の爲めに長慶の舊邸を捨てゝ大德寺内に聚光院を建立するに及び、開山第一祖となり、同十一年正月には大林和尚の遷化により、南宗寺に入つて其第二世となつた。【南宗寺の落成】弘治以來其整備に努めた南宗の寺觀も、こゝに至つて成就したので、落慶供養を行ひ、山を龍興と名づけ塔を曹溪と號した。又諸堂に榜し、南宗寺十境を選定した。斯くして元龜四年六月、將軍足利義昭の命により、南宗寺は五山に次ぐべき、禪宗十刹の一に列せらるゝに至つた。其後引續き或は聚光院に赴き、又南宗寺に還つて叢林を董し、專ら弟子の鉗鎚に當つた。
【市民の感化】堺在住中は寺務を督する外一面よく市民に接して化導に努め、感化を及ぼすところ決して小少ではなかつた。(祖心本光禪師行狀)當寺南莊の一比丘尼は、其谷口にある海眼菴を寄進し、(南宗寺諸法度、祖心本光禪師行狀)一住の後、之を其弟子の仙嶽宗洞に附與した。又北莊の宗賀は、同莊に一寺を創建し、【北宗寺】南宗寺に對して北宗寺と號し、笑嶺に開山たらんことを請ふたが、新寺に徙らば、南宗寺の監護を怠るの恐れありとし、再三之を固辭した。宗賀は已むを得ずして之を日蓮宗に改めた。卽ち今の妙國寺である。永祿十二年九月(龍寶山大德禪寺世譜、今本光禪師行狀)正親町天皇は特に祖心本光禪師の號を勅賜せられ、【大德寺法要導師】天正十年十月大德寺に於て、羽柴秀吉、織田信長の葬儀を營むや、其導師を勤めた。翌十一年十一月二十九日門弟に遺誡し、辭偈を作つて「喝レ雲呵レ雨、七十九年、斬二却魔佛一、吹毛靠レ天。」と書し畢り、南宗寺に於て遷化した。世壽七十九、法臘六十五。遺骸は門人等によつて、開山塔の側に葬られた。春屋宗園、古溪宗陳、仙嶽宗洞、一凍紹滴等の法嗣あり、何れも相前後して南宗寺の法燈を紹いだ。(祖心本光禪師行狀)