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(八七)山岡宗無

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 山岡宗無、諱は久永、幼名は捨十郞、後彌藏と稱し、南溪と號した。松永久秀の庶子である。幼時外戚山岡氏に養はれ、堺に移つて酒造を業とし、高三隆達の女秀を娶つた。【劒を上泉秀綱に學ぶ】劒を上泉秀綱に學び、(麻野家系圖)茶湯千利休に受け、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕へて四百石を領し、(山上宗二記、茶人系傳全集、麻野家系圖)休利、宗久、宗及の三茶人と名を齊しうした。(茶人系傳全集)藥仙寺を堺に剏建し、春屋宗園を請して第一世とした。(龍寶山大德禪寺世譜、茶人系傳全集)【宗無の男】男安室宗閑は紫野大德寺の第百七十六世となり、(麻野家系圖、龍寶山大德禪寺世譜)又弟に鼓の名手淺野彌藏がある。宗無和歌を善くし、兼ねて書に通じ(麻野家系圖)家に名器の茶入を藏して、勢高と稱した。(茶人系傳全集)【茶道の技】宗無は古風眞手の茶人で、此茶入には、此茶盌、此水指と、日常夫々工夫して定め置き、置合等も常住一樣であつたから、未熟の輩には見所少く、無興のやうに思はれたが、其日其夜の節に應じて思慮を囘らし殊に夜會に熟して、鮮かな手際を見せ、當時の第一人者として、禪の修養も亦其道を助くるものがあつた。(南坊錄)或時三齋、利休と共に、宗無の茶會に行つたが、始めのいりに亭主出でゝ、不存寄名水到着仕候とて釜を引きあげて勝手へ入つた。其間に利休は、棚にあるふくべをおろし炭を直した。宗無は濡釜を持出でゝ、是はと暫く炭を見、挨拶して釜をかけた。主客の仕方今に心に殘つて面白いと、三齋が度々話したといふことである。(茶湯古事談)文祿四年七月十五日歿した。(淨得寺過去帳)末裔淺野信吉氏は大阪市に現住してゐる。