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(七四)天倫宗忽

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 宗忽字は天倫、自ら不可得叟と號した。(續日本高僧傳卷第五)京師の人、俗姓上月氏寬永三年十一月出生した。(法鑑禪師年譜)【剃度】十二歳、紫野の清巖宗渭に就いて剃髮し、侍童となつて書を學び、久しからずして群籍に涉り、よく三藏に通じた。(勅諡、國英法鑑禪師塔銘、續日本高僧傳卷第五)【臨江菴修養】明曆元年堺の臨江菴に座禪し、硏鑽久しうして、七年閏二月德泉菴に赴いた際には、緇素群を爲して説法を聽いた。【德泉菴入】八月紫野の聚光院に移り、十年八月又德泉菴に到り、是歳の冬、一路庵主宗休の請により、傳心法要を講じ、其後屢々德泉菴に入つた。【大徳寺住職】延寶三年二月大德寺に出世して、其第二百十八世となり、清源菴に住した。【紫衣勅賜】時に年五十歳、(紫巖譜略)道譽叡聞に達し、紫衣を勅賜せられた。(續日本高僧傳卷第五)同四年九月品川東海寺の輪番職となり、五年九月辭して紫野に歸つた。(紫巖譜略、法鑑禪師年譜)十月堺の檀越中村宗治、父宗有居士の小祥忌を營むに際し、遺命により佛事を修した。當日宗治弟子となり法號を宗貞を號した。是歳十二月祥雲寺に開山澤庵和尚の三十三囘忌法要を修するに方り、外護者幷に耆舊等の請によつて、導師となつた。又祥雲寺の檀越等同寺に久しく住持を缺いたので、來住を希ふたが、固辭して應せず、大仙院の尊宿等、之を要して普山を請ふに及び、止むを得ずして之に住し、閏十二月入寺した。【祥雲寺住職】六年四月祥雲寺に居り、八月德泉菴に移り、大德寺の塔頭聚光、高桐兩院の住職を兼ねた。時に中村宗治宗貞居士)父宗有居士の遺命により地を求め、寺を創して、天倫に開山たらん事を請ふた。然るに南宗寺大林宗套の道場で、泉州の大伽藍たるに關はらず、甚しく頽廢してゐるので、同寺を復興せば、其福祉は一寺創設の功德に倍するものあらんと告げた。【南宗寺復興】是に於て十月南宗寺復興の工事に着手し、翌七年十一月に至つて竣功した。卽ち同寺再造落慶の供養を行ひ、未曾有の盛儀と稱せられた。(南宗寺落慶供養之偈幷序)天和元年十一月又堺に赴き、德泉菴に移つた。【濟餓會】是歳偶々飢饉に際して市民の困窮を視るに忍びず、檀越を説いて濟餓會を開き、百五十日間の久しきに亙り、施與するところがあつた。其數五千餘人に上り、世人之を尊崇して、藥師如來の再生と稱するに至つた。【禪樂寺に入山】同三年堺の檀越中村宗久宗貞の弟)不盡庵(後の禪樂寺)の廢地を求めて堂宇を再建し、天倫の退休所とせんと欲し、建造に着手し、五月落成し入菴した。四年正月紫野の方丈位に坐し、入朝して龍顏を拜した。三月不盡菴に居り、七月祥雲寺に到つた。諸檀越は頻りに歸寺し、住持たらんことを請ふたが固辭したので、終に同寺を以て、同門の輪番所とした。【東海寺獨住の嚆矢】元祿二年將軍家綱の命により、東海寺に住した。是東海寺獨住の嚆矢である。(勅諡國英法鑑禪師塔銘、法鑑禪師年譜)居ること八年西歸し、紫野高桐院に着し、次で不盡庵に移つた。【禪樂寺再興開山】宗貞は同庵の規模頗る狹隘なので、謀つて擴張し、再興の開山とした。然るに屢々京都、堺間を往復した爲に、五月病を發し、六月十八日危篤に陷つた。(法鑑禪師年譜)【遺偈】其日宗貞は座下に進み、伽藍の成就を告げたが、天倫法城を護れとの詞を與へて、厚意を謝し、(勅諡國英法鑑禪師塔銘)二十日同門を清源菴に聚め、懇ろに後事を委ね、偈を書して、「生亦不得、死亦不得、喚爲不可得、不可得、不可得」と云ひ、二十二日示寂した。【遺骨を高桐院と不盡庵に葬る】壽七十二、法臘滿六十、火化して遺骨を二分し、一は高桐院に、一は不盡庵に藏めた。【禪師號勅諡】二十三日國英法鑑禪師の諡號を下賜せられた。【語録】語錄が遺つて居る。(法鑑禪師年譜)