次に、発掘調査が実施された遺跡を中心に、各地域の遺跡について触れておきたい。
西区手稲前田の紅葉山砂丘上の遺跡は、中期の半数以下に減少し、前葉と中葉の土器が発見されている。S二九五遺跡は、初頭の土器を中心とし、中葉の土器が若干出土し、手稲遺跡(N一遺跡)は、中葉全般の土器が出土している。この他に前葉の土器を数点出土する遺跡も見られるため、紅葉山砂丘の南端は、前葉から中葉にかけての居住空間として活発に利用されていたことがうかがえる。
発寒川扇状地では、中期の遺跡が、手稲側に偏在しているのに対し、中の川流域の標高一〇~五〇メートルの間に後期の遺跡が集中しているが、遺跡数は、やはり中期の半数以下となっている。昭和七年にN一九遺跡の発掘が行われたのみであり、遺跡群の詳細に関しては不明である。N一九遺跡では環状列石が見られたという。出土遺物がまったく発見されなかったことから、構築の時期が不明であるが、道内の他の地域から発見される後期の環状列石に近いものであり、後期には中の川流域は環状列石を構築するほど、生活環境が良好であったといえる。
月寒川、望月寒川流域の月寒台地には、良好な遺跡が数多く存在する。台地の最も低い標高一〇メートルには、墓を数個発掘したS二二九遺跡、二〇メートル付近には、大正十一年の河野広道のノートに立石のある遺跡として記録の残されている旧白石村役場付近のS三五四遺跡と白石神社遺跡(S九四遺跡)が見られる。標高三〇メートルでは、産業共進会場近くのS一五一遺跡とわずかな遺跡が存在するのみである。五〇メートル付近から高い地域にかけては遺跡が集中して存在する。正式発掘が行われた遺跡は、坊主山遺跡(T三一〇遺跡・豊平区平岸五条九丁目)のみであるが、平岸高台地区から月寒公園にかけては七カ所の遺跡があり、さらに福住地区でも一カ所見ることができる。月寒川の支流のラウネナイ川流域では、標高六〇メートルに墓を発掘したT四六八遺跡がある。
月寒台地でも後期には、中期より遺跡数が激減するが、周堤墓といわれる集団墓と思われる二遺跡をはじめ、他の地区に比べ多くの遺跡が営まれており、良好な生活環境であったことが容易に想像できる。今日のように宅地化が進む以前に発掘調査が行われていたなら、北海道の先史文化解明に大きく寄与することのできる多くの重要な発見が相次いだであろう。
野幌丘陵では、あまり良好な遺跡がなく土器片、石器が数点出土する遺跡が多い。この地域は、支笏火山灰が厚く堆積しており、雨水による表土の流出がはげしく、地味がやせており狩猟・漁撈・採集民が集落を営むのにあまり適した土地ではなく、狩猟などのキャンプにのみ使用された地域であった。野幌丘陵からややはずれるが、T三六一遺跡は、厚別川の支流の上流に存在し中葉の墓と住居跡一軒が発見され、T四五五遺跡(豊平区清田一条二丁目)は、厚別川の低位段丘に存在しておりともに注目に値する。