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津軽十三湊

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 北条氏の直轄領すなわち得宗領の地頭代であり、蝦夷管領の代官であった津軽安藤氏は、鎌倉幕府のもつ東夷成敗権を介して夷島流刑者の現地管理者となったと同時に、津軽十三湊(とさみなと)に交易のために往来する夷島の住人を含めて、夷島の居住地全体を統轄する役割を担ったのである。
 一三、四世紀には十三湊は京船、夷船の集まる重要な港になっており、貞応二年(一二二三)に成ったとされる海事商法規である『廻船式目』に記載される三津(伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津)、七湊(越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の秋田と十三湊)の一つにあげられている。
 この時集まった夷船は、ウイマムチップすなわちウイマムの船だろうとされるが、ウイマムとは「初見(ういまみ)」または「お目見得(めみえ)」の転訛、夷は領主を拝してみやげを捧げ、領主からはその代償として贈物をうけとるというものである。夷のもたらしたものは獣皮や干などであったろうが、与えられたものは金属製品や木製容器、漆器類、衣料、米、酒などの本州産の製品・産物である。これらが多量に夷社会にもたらされたことにより、彼らの生活や文化に大きな影響を与え、近世的なアイヌ社会へと変貌をとげていった。
 イシカリアイヌもこの頃十三湊へ交易に出ていたことを推定させる話として、寛文九年(一六六九)のシャクシャインの蜂起の時、弘前(津軽)藩から西蝦夷地に派遣された藩士牧只右衛門らがアイヌに接触して聞いた話の中で、イシカリの大将ハウカセが、
我々先祖は高岡え参商仕候。松前殿御仕形は、唯今の様子に御座候はゝ、隠忍候ても高岡え参、能米と商仕たく由申候と、物語申候
(津軽一統志)

とある。高岡が弘前と改められたのは寛永五年(一六二八)のことであるが、外浜、上磯などの「」が登城、熊やオットセイなど、陸海獣の皮、昆布、串貝などを献上し、酒肴を賜り米、代銭など給された話が「藩庁日記」に残っている(津軽弘前城史)。