それより少し前の明和二年(一七六五)、飛驒屋がまだイシカリ山請負を盛んに行っていた同じころ、阿部屋は「しやつほろ」場所の夏商を請負うことになった。
それは、明和二年十一月十六日付の「しやつほろ」場所の知行主である南条安右衛門から請負人村山伝兵衛に出された請負証文に明らかである。それには、次のように記されている。
証文之事 | |
一 | 手前支配所石狩しやつほろ夏商場所来ル従戌之年丑ノ年迄四ケ年之間運上ニ相渡申所無相違候。壱ケ年ニ小判廿七両宛相定、尤戌之年運上金之内小判拾四両唯今請取、残て拾三両来三月請取可申候。亥ノ年之分は戌ノ五月、子ノ年分は亥之五月、丑之分は子ノ五月中請取可申候。将亦於蝦夷地理不尽之儀無之様相心得可被申候。且指荷之義は、別紙ニ相認差遣申候。為念仍て証文如件。 明和二乙酉十一月十六日 南条安右衛門 印 村山伝兵衛殿 (新札幌市史 第六巻) |
これによれば、明和三年より同六年まで四カ年間、一カ年につき二七両の運上金で「しやつほろ」場所の夏商を、村山伝兵衛が請負うというものであった。知行主の南条安右衛門は、元禄十三年(一七〇〇)の『支配所持名前帳』(東大史)に、「石猟(カリ)ノ志古津(シノロ)鳥屋一ケ所……南条安右衛門」とある南条家で、イシカリに鳥屋場を所持し、藩では町奉行を務めていた家柄である(蝦夷商賈聞書)。
この請負証文は、おそらくイシカリ場所に関して発見されているもっとも古いものと思われる。この後明和四年には、今度は六カ年の継続証文が出されるが、両方の証文を比較してみるに、前者の方が運上金を前納には違いないが二七両のうち一四両を前年のうちに、残り一三両を翌年の三月という具合に分割しているところから、あるいは請負証文とりかわしの最初ともみてとれる。
ところで、阿部屋は、どうして「しやつほろ」場所の夏商を請負うにいたったのだろうか。阿部屋は、後に飛驒屋が請負ったソウヤ場所の下請けを行うにいたるが、「しやつほろ」場所に関しても飛驒屋との関わりでみていった方が妥当とも考えられる。当時飛驒屋がイシカリ場所の下請にどの程度関わっていたのかは明確ではないが、前述した明和三年の飛驒屋関係の史料でみる限りでも、大黒屋、工藤の両請負人がいる。阿部屋が、一二人いるイシカリ場所の知行主のうち、南条安右衛門とのみ請負契約を結んだのは、いかなる理由からなのかまったく不明である。ちなみに、宝暦三年の南条安右衛門の知行所の運上金は、二六両であった。阿部屋と請負契約を結んだ時点では、二七両となり、明和四年の継続時には、三〇両に値上がっている。
写真-3 安永3年の銘のある手水石
(石狩町金龍寺)