場所名(比定場所) | 人口 | 首長名 |
①トクヒラ(トクヒラ) | 六四人 | シラシロマ |
②ユウバリ(上ユウバリ) | 二五人 | イシカイ |
③ナイホウ(上サッポロ) | 二九人 | コタカ |
④チヒカルシ(シノロ) | 一九人 | サシタマアイノ |
⑤モマフシ(ナイホ) | 八人 | イタクカマ |
⑥ハツシヤブ(ハッサム) | 二六人 | イヌシクル |
⑦カバト(下カバタ) | 一一人 | ヤエチキリコ |
⑧トマヽエ(下ツイシカリ) | 二八人 | セリホクノ |
⑨トイヒラ(上カバタ) | 五九人 | コミトリ |
⑩シマヽリフ(シママップ) | 二四人 | モムアイノ |
⑪トイシカリ(上ツイシカリ) | 一〇人 | シリマウカ |
⑫サツホロ(下サッポロ) | 四一人 | クウカンテ |
計三四四人 |
ここに掲げた一二の場所名には、地名の交錯、誤記等がみられるので、( )内に比定場所を示した。各場所の人口は、①トクヒラがもっとも多くて六四人、ついで⑨トイヒラ(上カバタ)の五九人、⑫サツポロ(下サッポロ)の四一人の順となっており、イシカリ十三場所(下ユウバリを欠くが)として把握される人員は、全部で三四四人であった。この史料のように、知行主、請負人、運上金のほかに各場所の人口が掲げられているのは、知行主より請負を任された請負人にとって、生産の直接の担い手であるアイヌの人員を当然のこと知っておく必要があったのであろう。それは、請負人にとっては、交易相手が一定しており、生産高、運上金に直接関わることでもあったからである。
またこの段階で、首長名が明らかにされているのは、場所内の構成員の統率者として、請負人側の意志を場所構成員に伝達する役割、すなわち、交易を円滑に遂行するための「撫育」にとって欠かすことのできない重要な働きをなしたからであろう。
天明末年より寛政年代(一七八九~一八〇〇)になると、十三場所に関する史料が一層多くなり、ここで戸数がはじめて明らかにされる。表3は、前述の『産物方程控』の段階より、文化四年の西蝦夷地の直轄を経て、文化七年(一八一〇)にいたる間のアイヌの戸口を示したものである。これにより、十三場所のアイヌの戸口の推移が知られる。
表-3 イシカリ十三場所戸口表(天明6~文化7年) |
場所名 | 天明6(1786) | 天明末~ 寛政初年 | (男) | (女) | 文化4(1807) | 文化7(1810) | (男) | (女)(A) | 文化7(1810) | (男) | (女)(B) | |
トクヒラ | 64人 | 40戸 | 120人 | 60人 | 60人 | 815人 | *1,170人 | 616人 | 554人 | *1,178人 △ | 616人 | 554人 |
ハッサム | 26 | 13 | 56 | 34 | 22 | 34 | * | * | ||||
上サッポロ | 29 | 15 | 50 | 27 | 23 | 187 | 194 | 104 | 90 | 194 | 104 | 90 |
下サッポロ | 41 | 30 | 73 | 50 | 23 | 119 | 194△ | 93 | 98 | 194△ | 93 | 98 |
シノロ | 19 | 15 | 37 | 22 | 15 | 125 | 138 | 67 | 71 | 138 | 67 | 71 |
上ツイシカリ | 10 | 10 | 31 | 20 | 11 | 106 | * | * | ||||
下ツイシカリ | 28 | 8 | 25 | 15 | 10 | 記入なし | * | 記入なし | ||||
上ユウバリ | 25 | 8 | 34 | 20 | 14 | 123 | 46戸376 | 記入なし | 記入なし | |||
下ユウバリ | ― | 8 | 25 | 15 | 10 | 154 | 51戸452 | 記入なし | * | |||
上カバタ | 59 | 23 | 106 | 72 | 34 | 348 | 372△ | 198 | 189 | 372△ | 198 | 188 |
下カバタ | 11 | 13 | 50 | 31 | 19 | 95 | 102△ | 54 | 47 | 102 | 55 | 47 |
シママップ | 24 | 7 | 30 | 19 | 11 | 55 | * | * | ||||
ナイホ | 8 | 6 | 20 | 11 | 9 | 28 | 29 | 15 | 14 | 29 | 15 | 14 |
合計 | 344 | 181 | 657 | 396 | 261 | 2,285 | 3,027 | 2,207△ | 1,148 | 1,062 |
1.天明6年は、『西蝦夷地場所地名産物方程控』(函図)によった。この場合交錯した場所名は相当場所名におきかえた。 2.天明末~寛政初年は、『西蝦夷地分間』(東大史)によった。 3.文化4年は、田草川伝次郎『西蝦夷地日記』によった。 4.文化7年(A)は、松浦武四郎『野帳巳第一番』(国立史料館蔵)によった。この場合「文化七庚午五月改」とある。 5.文化7年(B)は、「石狩御詰懸り場所々々請負人支配人名前並蝦夷人別海岸里数」(土人由来記―道文)によった。 6.*印はトクヒラ以下5場所合計を示した。またいずれかの数字に誤りがあると思われる箇処に△印を付した。 |
まず、『西蝦夷地分間』によれば、十三場所各場所の戸数は、多くて四〇戸、もっとも少ないので六戸である。一戸あたりの平均人員は、約三・七人、もっとも多いのが、上カバタの四・六人、ついでハッサム、上ユウバリの各四・三人の順である。総人数は、六五七人で、『産物方程控』と比較すると約二倍に増加している。しかも、人口数において男女の比率がひどくかたよっていて、男子の人口が女子の一・五倍以上になっているのは、この数値の正確さに問題があるにせよ、不自然な人口の把握あるいは管理がなされたことを思わせる。
次の文化年代の三種類の記録にいたるとどうであろう。文化四年の場合と前代のとを比較しても、総人口数が三・四倍ほどにも増大している点が目立つ。とくに、川口に近いトクヒラのように、約七倍に増大しているのは、それまで人別に入れていなかった地域からアイヌの人びとを人為的に集住させる必要が生じたことをも思わせる。三倍以上の増加場所は、下ユウバリ(六倍)、シノロ、上ツイシカリ、上ユウバリ、上カバタで、減少したのはハッサムただ一場所のみである。
同じ文化年代でも、文化七年の(A)、(B)二種類の場合、総人数においてやや相違があるが、トクヒラ以下五場所(下ツイシカリと下ユウバリと違いがあるが、同一請負人の場所という捉え方でいうと、下ユウバリが正しい)をまとめ書きしている点に非常に相似がみられ、しかも記入されている六場所の数字が一致している点からも、この人別改めの数字の出処は同一とみてさしつかえないだろう。(A)の場合上ユウバリと下ユウバリの二場所のみ戸数が記入されているが、これで一戸あたり家族数を計算すると、八人以上となり、人口の増加のしかたといい、きわめて異常な人口把握がなされている。また、後述するが、(A)、(B)ともに五場所をまとめ書きしていることは、同一請負人下の理由なのか、あるいは、場所の区分の実態がなくなって、別々に把握する必要がなくなっていたことも考えられる。