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遠山・村垣一行

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 文化四年(一八〇七)の西蝦夷地直轄の前年、幕府目付遠山金四郎景晋、勘定吟味役村垣左太夫定行ら一行が、西蝦夷地を見分したことは前述したとおりである。また、この時西海岸をソウヤまで行き、その帰途イシカリからユウフツへ抜ける途中、サッポロ川の流路が大きく変わったといった重要な記述をしたことでも知られている。
 そこでここでは、遠山、村垣一行に随行した一人である東寗元稹の『東海参譚』より、シコツ越えについてみてみよう。
(六月)十一日、イシカリ川を船にて泝る。川上へ行程川幅狭けれども、川水は甚だ深し。ハツサブ[五軒] サッポロベツ夷 ヒトヰ トウベツ トマムタヰ夷 ツイシカリ 上陸して泊る。夜更前也。草屋の、たゞ雨露をしのぐのみ。
  (中略)
十二日、又川船にて泝る。ヰベツに入る。左右みな沢にして、川境さだかになし。ユウバリ川合流す。濁流也。此辺にて川幅甚だ狭く六、七間ばかり、左右の岸は万木茂く、藤葛生茂りて、両岸の枝河上に相交り、わづかに日の光りをもらす。大小の蝱船中に入て人を螫す。大なるものは灰色也。小なる爪蠅の如く、其毒尾甚た利し。シマヽツプブドウ、[シマヽツフ、松前家公地の境也]川中にして天色暮たり。猶行事数里の中、船中闇々たり。イサリに着。時既に三更、両岸の篝火千点、白昼の如し。
十三日、船。船の長さ六尋ばかり、巾も深さも二尺にたらず。丸木のうつば船なり。千とせ川の会所に宿る。[東方は会所といふ。則西地の運上屋船なりしかども、東方には会所といふもの二軒を置て、一所にては夷人の品を買上て、其あたひを遣し、一所にては夷人等のもとむる所の品をあたへゆるとなり。西地とは少し異なるところなり。]
〔原頭註―千とせ川、はしめはシコツトウといふを、其音のよからぬを以て、羽太氏是を改めける也。〕
  (法三章略)
夷人をいましむるに、法を三章としてたれり。只願くは後年に其法度を増(ざ)らんことを。
十四日、陸行。キシヤラコツ、山越一里余。ヒヾ川、川船に乗る斗。シマケシケクシベツ、沢中に入、湖水の如し。ユウブツに泊る。

 以上のように、イシカリを出てから四日かかってユウフツに到着している。途中の宿泊は、ツイシカリは草小屋であったが、直轄領となった東蝦夷地イザリでは、「両岸の篝火千点」が焚かれ、まるで昼間のような応待ぶりであったし、千歳では会所に泊っている。享和元年の磯谷則吉のシコツ越えとは、大きく異なっている。しかも、この遠山、村垣一行の通行によって、前章でも触れたように、シコツ越え道整備のためイザリブト通行屋を建てることにし、通行屋番人二人の飯料としてシレマウカイザリブトのウライ二カ所のうち一カ所をそれにあてることに決定している。
 また、この通行で大いに異なったのは、東蝦夷地の直轄によって千歳会所のところで触れているように、アイヌから交易品を買うところと、反対にアイヌに商品を売るところと分ける方式を導入したことや、アイヌへの「法三章」を申し渡したこと、『遠山村垣西蝦夷日記』にあるように、直轄領となったシママップ川の向こう側まで幕吏が出迎えにきていることなど、シコツ越え道一本が私領と公領との二つの支配に分断されたことであった。